カナダ高校留学 〜2年目〜
こんにちは。
日本はとても暑いと聞いています。モントリオールも暑いですが、日本よりは暑くないと思います。少なくとも私がそれまでいた東京に比べるとまだまだモントリオールは快適です。
(モントリオール留学については後日書いてゆきます。)
前回、カナダの高校での授業スタイルからイグザムまでの記事を書きました。
本日は、カナダ高校留学2年目のことについて書いてゆきます。
卒業前後、そしてプロム(卒業イベント)、卒業式についてはまた別記事で書いてゆきます。
- カナダ高校留学2年目を送るため一時帰国
- 現地へ出発
- 2年目のスクールライフ
- バレーボール部加入
- 現地大学進学に向けて動き出す
- 帰国の決断
カナダ高校留学2年目を送るため一時帰国
私は、カナダの高校で1年目を終えた際に、日本へ一時帰国しました。
なぜなら、私はカナダへ留学する前、父親から一度は許しを得たものの、現地の高校を見学してくるように言われ、私が留学したかったバンクーバーへ行き、本気で行きたいと思う高校を見つけて帰って来ましたが、その後急に反対されることになりました。
そのため、高校留学は1度断念され、説得を続け高校2年生の時にやっとカナダに行けました。
その時に出された条件は、
-行きたかった高校ではなく父親が選んだ高校に行く。
-1年カナダで高校生を終えたら帰ってくる。
参照
カナダ高校留学 〜思わぬハプニング〜 - lgbtlifecanada’s blog
と言うものでした。そのため、1年目の留学を終えて日本に帰りました。
でも私は日本の高校にまた行くつもりは全くなく、日本の高校に行くつもりはないと言うか、カナダに残る意思しかなかったので、荷物はほぼ全てカナダのホームステイ先に残し、日本へ帰国しました。
日本に帰り、カナダに残りたい旨を伝えた。
その際、あっさり承諾を得た。
そしてその間日本でアルバイトをしたり、友達と遊んだりしていました。
(もちろん、ある日父親がまた癇癪をおこし兄母含め怒鳴ったり精神的に追い詰めるイベントが発生しました。
本当にこの人はいつでも何か気に入らないことがあればすぐスイッチが入り周りを精神的に追い詰め傷つける。そして沸点が低く、どこに地雷があるか全くの未知。
いつか父親については改めて記事を書きます。と言うか書かせてください。
これは私が心の中にある深くいつも付き纏っているトラウマを書いてアウトプットすることで少し傷が癒されるかもしれないからです。
もし今、家族に留学を反対されている。毒親の元で育っている・育った。よって深いトラウマがある。という方々がいらっしゃったら何か助けになればいいと思っています。)
そしてまたカナダへ戻る日、その際、爺ちゃんも見送りに来てくれた。
その際、私がスーツケースをカウンターに預ける時に付き添ってくれたのだが、そこに外国人がいて、重そうなスーツケースを1人で運んでいた。
その彼は少なくとも日本語は話せない方だった。その彼に爺ちゃんが楽しそうに話しかけ彼を助けようとした。
ちなみに爺ちゃんは全く英語が話せない。それでも知らない外国人に自分が知っている英語を使い、陽気に話しかけてる姿を見て、微笑ましいな、やっぱり爺ちゃん好きだなって思った瞬間でありました。
現地へ出発
そしてカナダに到着し、バンクーバーに少し立ち寄り、カナダの高校を下見した時に出会ったエージェントの方々と再会した。
その時の記事を貼ります。ブログ後半PS部分を見てみてください。
参照
カナダ高校留学 〜日本出発から到着、学校が始まるまでの日々の過ごし方〜 - lgbtlifecanada’s blog
そしてまた例の、手動でプロペラを回してから離陸する小型機に乗り、現地に到着。
到着すると、ああやっぱり田舎だなー、何もないなー、よく1年目ここで生活できたなーと思った笑
でもすごく楽しんだ。だからまたここで過ごす2年目を楽しみにしていた。
家に到着し数日を過ごした。
新しい台湾からのホストブラザーを迎え入れることになっていた。
(スイス人のホストブラザーは元々1年と言う留学期間であったため帰国。)
台湾人のホストブラザーを迎え入れる当日、
例の1年目に仲良くなった1学年上で学校を卒業していたNとGが私に電話をしてきて遊びに連れて行ってくれた。次の遊びとしてゴルフに誘われたが、ホストブラザーの台湾人、またその両親や両親の弟子(その両親は結構な規模の会社を持っており弟子?鞄持ち?がいた)と一緒に食事をしないといけないことになっていたため、ゴルフを泣く泣く断った。
あの時、まだGのことすごい好きだったしNのあのテンションが久しぶりでゴルフの方に行きたかったなーと思っていた笑
参照
カナダ高校留学 〜現地で恋に落ちた話〜 - lgbtlifecanada’s blog
でも家族総出で現地まで見送りに来るってすごいなあ。今思っても。
挨拶や現地のことをホストママ含め話し、一通り見せて回った。
何回も言うが、本当に、見せて回るものも特にないのだ笑
だからすぐ終わった笑
2年目のスクールライフ
そしていよいよ9月、私のカナダ高校留学の2年目を迎えた。
私が仲良かったバレー部全員は私より学年が一つ上だったからみんなもう卒業していない。(と言うより当時、私の学年は私しかいなかった。)
それだけが心配だった。
でもバレー部以外の友達もいるしそれなりに楽しく過ごせるのかなと感じた。
学校初日に1学期目のカリキュラムを組んだ。
私はことのきまだ、カナダの高校を卒業したらバンクーバーの大学に進学するつもりでいた。
大学に進学するときに必要となってくる科目を取り入れた。
(カナダの大学は入学試験はなく、高校でどの科目を取得し、またどのような成績を修めたのかがポイントになってくる。)
がやはり大変。現地人もいい大学に入ろうと必死にそれらのクラスでいい成績を治めようと勉強していた。
宿題やエッセイが増えてゆき、自分の英語力と向き合わなければならない機会が増えた。あまり日本人と関わる機会がなく、英語を話したり書いたりする機会が多かったとはいえ、私の英語力はまだまだであった。
普段の友人との会話で、明らかにおかしい文法や間違った表現の使い方をしていたら指摘してくれることはあったが、何となく私の言いたいことが伝わったり、察してくれたりするため、間違いに気付いてないことがある。
私は今高校留学をしていたら、きっと何か別途レッスンを受けていたと思う。
バレーボール部加入
私はその年もバレーボール部に入った。
部員は私以外皆学年が一つ下だったため必然的に私がキャプテンになった。
キャプテンと言っても大したことはしない。
試合の際に、どちらのチームが先攻後攻か決めたり、試合中に何かあった時に審判に呼ばれるくらい。
あとは背番号のしたに横線が付き、キャプテンが誰だかわかるようになる。
2年目のチームは正直あまり強くなく、遠征もそこまですることはなかった。
でもやはりバレーボールをすることの楽しみをひしひしと感じていた。大好きなスポーツであった。
勉強と部活の両立は最後の学年になると大変だった。でも心はハッピーであった。
現地大学進学に向けて動き出す
2学期には本格的に大学進学のためにみんなが動き出す。
当時の主流な進学方法は、まずカレッジに進学し、その後大学に進学するという流れであった。
特にインターナショナルスチューデントは、カレッジに、
① 成績表
② 英語力(TOEFL)
この2点を提出する必要がある。
まず提出先が定める英語力がそもそもないと成績が足りていても入学できないので、学校でTOEFLを受講した。
また、高校をカナダで過ごし、何を学んだか、また現地のカレッジに進学して何を学び、どう将来につなげて行きたいかについてのエッセイを書き提出した。
私は志望大学に繋がるカレッジから入学許可を受け、入学できることになった。
帰国の決断
そしてそのことを父親に伝えると、
”もう帰ってきて欲しい。”
とのことだった。
父は自営業をしており、当時、私の家族の経済は破滅的であった。
それは理解していた。そのため私は帰国することを決めた。
その時私は思った。
またバンクーバーにいけなくなった。
私は本当にバンクーバーのことは誰よりも好きだしそこに行きたい気持ちがある。
でもここまで来ると多分縁がない。
と。
でももうその時はスッキリしていた。
無理なものはもう無理なのだと。
周りの留学生たちはバンクーバーやカルガリー等、大きな大学があるところに進学することが決まってゆく中、私は帰国することになった。
悔しい気持ちはあった。でも無理はものは無理なのであった。
今思えば、あの時しがみついて奨学金を申請して現地に残れたかもしれない。
でも当時私はそれができなかった。奨学金を貰ったとしても生活して行けるお金がなかったから。
そして私は帰国する日程を決め、あとは卒業を待つのみとなった。
次回は、カナダの高校の卒業式のイベント、卒業式について記事を書いてゆきます。
本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。