カナダ高校留学 〜現地で恋に落ちた話〜
こんにちは。
前回はカナダ高校留学、現地での部活動について記事を書きました。
(モントリオールの記事については今後書いてゆきます。)
今回は前回お話しした、バレー部のセッターの彼に猛烈な恋をした時のお話をします。
- 彼を好きになるきっかけ
- 恋に落ちてから
- 遠征中、車内での出来事
- 俺がいないところで俺の話をしてる?
- 儚く散った恋
- 偶然で会うしかない
彼を好きになるきっかけ
私はずっとゲイとして自覚していて、”ああこの人格好いいなー”や、”イケるー”くらいは同性に対し思ったことはあったのですが、恋というか、付き合いたいというか、恋愛の対象として真面目に人を好きになったことはあれが人生で初の経験でした。
私はあることが起きるまで、そのセッターの彼に好意を持つことはありませんでした。
ブロンド、ブルーアイズ、笑顔が素敵、スラッとしてる、楽器も弾ける、面白い。
という好青年。
話してても友達として気楽に話していた。
ある日まで。
部活に入ってから数ヶ月後、夢に彼が出てきた。
初日は何も思わなかった。
しかし、2日目も3日目も4日目も彼が出てくる。
しかも夢の中でイイ感じ・・
4日目くらいになると学校で彼と会ったり見かけると少し意識してしまう。
でもまだ意識するくらいで、恋はしてなかった。
5日目、6日目、7日目。。なお彼が夢に出てくる。
まさかの1週間連続で彼が俺の夢に。
7日目なんてもうカップルとして成立して俺らの関係は公になっていた。
俺の深層心理は彼のことが気になってたのか!?
もうその頃、学校で彼に会ったり見かけたりすると、ドキドキが止まらない、そして隠れたくなる(笑)、喋ると緊張する。。
完全に恋に落ちていた。
すごい勢いで。
でもね、どうしていいかわからない。
苦しい・・・
恋に落ちてから
これまで恋をした後に行動にした経験がない。
そもそも彼がゲイかわからない。
ゲイじゃなくしかもアンチゲイだったらどうしよう。
噂が広まったらどうしよう。
バンクーバーに行った時は、そこら中に同性カップルがいたり周りも特に気にすることなく接していた。
しかしこの小さい町。噂は一瞬で広まる。
そしてLGBTQの人たちはほぼいなかった。
そんなこともあり私は行動に移すことはできなかった。
会った時、何事もなかったかのように接する。
それしかできなかった。
ただ、、
その笑顔が、その白い歯が、その眼差しが、ま、ま、眩しい・・・笑
最初のうちはよかったけど、だんだん辛くなってきた。
遠征中、車内での出来事
ある日部活で遠征した時、コーチのワゴンを使った。
夜中に移動する日があり、なんと、彼が俺の右隣に!
すると、彼がコックリコックリしてきた。
そして俺の肩に!!!え!!こういうの漫画とかであるやつ!?
俺の左隣には違う部員が寝ていて俺は間に挟まれていて逃げられない・・
ドキドキしまくってたなあ笑
少しして彼が起きて、”ごめんね、次は叩いていいからね”って言ってきた。
違うんよ、いいのよ、もうずっと俺の肩で寝てて!なんて言えるはずがなく。
そういうのもありとっても恋に落ちてしまった。
辛くなってしまった。
意識しまくってしまい、だんだんと前のように接せられなくなってきた。
俺がいないところで俺の話をしてる?
例の俺にあだ名をくれた人(以下N)とその片思いしてた人(以下G)は親友であり、よく2人で話しかけてきてくれた。
俺とGが2人きりでした話を何故かNが知ってるということがよくあった。
Nは世話焼きで俺を心配してくれていろいろ気遣ってくれるから、NがGに俺のことについて聞いたのか、Gも俺のこと気になっててNに話すのかな!??とか。
真相はわからないが、当時は後者を信じたく、都合よくそう捉えていた笑
がしかし、どう思考を変えても、俺とGとの関係は前と何も変わらず、むしろ俺が気まずいというか緊張して明らかにこれまでような振る舞いができなくなっていった。
儚く散った恋
ある日、母校に他校を招いてトーナメントをすることがあった。
男女両方でそれぞれトーナメントを行った。
その時、すんげえ可愛い女の子が所属しているバレーボールチームがきた。
すらーっとしてビクトリアズシークレットに出てくるような一際存在が際立っていた。
なんと、Gはナンパしたのか、トーナメントが終わることにはその彼女とベッタリ。
全てが崩れ去っていく音がした笑
いやもう無音だった、何にも聞こえなかった笑
そしてトーナメント閉会後、彼は彼女と2人でホテルに行った。
(チームメンバーにホテルに行くと言っていた)
今となっては笑えるが当時はもう終わった感満載。THE END。
そんなことが終わっても好きな気持ちは抑えられない性格な私。
それでもずーっと好きだった。
偶然で会うしかない
バレーボールのシーズンが終わり、冬になり毎日スキーヒルに行った時、彼もスキーをしに来ていて偶然会えた時、まだまだ好きだなーって思った。
家も近く、偶然近所で会わないかなーとか。
Gはバンドもしてるし、バンド、スキーしてなかったとしても2人で会う理由もきっかけもなかったから、偶然じゃないと会えなかった。
彼は私より学年が1つ上。
いよいよ彼が卒業。
卒業して会わなくなってもしばらく好きだった。
私が最後の学年に進級してもしばらく好きだった。
そんな彼、今は地元の俺も知ってる当時彼と同じ学年にいた子と結婚して子供もいる。
今はすんごい良い思い出。
彼が本格的は初恋の相手で良かったなと今は思う。
という話でした!!
カナダ高校留学 〜部活に所属 1年目〜
おはようございます。
前回はカナダ高校留学、通学初日について記事を書きました。
今回は現地での部活動について書いてゆきます。
- バレーボール部所属初日
- カナダの部活事情
- いきなりの試合
- 試合当日
- 試合の帰り
- あだ名ゲット
- 試合前の行事
- 掴んだ楽しいスクールライフ
- 馴染みだしたスクールライフ
- ウィンターシーズン突入
バレーボール部所属初日
私は中学時代にバレーボール部に所属していました。
日本で高校生を1年間経験しその間もバレーボール部に参加していました。
(コーチも私がカナダへ留学することを知っていたので、チーム練習の助っ人として参加していました。理解してくれていたコーチや当時のチームメンバーにはとても感謝しています。)
バレーボールをプレーすること自体は大好きなので、カナダでも現地の高校のバレー部に参加したいなと思っていました。
(中学時代のバレーボール活動にこれまた父親が絡んでいてこれもまた私の心をエグる出来事なのでそれもまた別記事で書かせてください。)
現地の高校に通い始めたその週の放課後、私が通う高校で働くホームステイマザーがバレーボール部の練習があるからと部員が集まっている体育館へ連れて行ってくれた。
私のホームステイマザーとバレー部員は仲が良いとのことだった。
ドキドキ。
そりゃするわな笑
そして今でも覚えている。チームメンバーの中で初めて会話を交わした人は1学年上のセッター。
そう、この人、私がカナダにいる間激しく片思いすることになる人なのだ。
こんなに好きになったことは当時、人生で初めてだった。
お互い、初めましてーみたいな挨拶と握手を交わした。
そしてそのまま私は練習に参加することになりホストママは帰宅。
ウォーミングアップから練習、監督、コーチとの関わり方から全て日本と違っていた。
すんごい楽しかった。
でも日本人どころか留学生が1人もいない。オールカナディアン。
確実に良い環境であるが心細かった。
まだまだチームメンバーとは馴染めずあまり話すこともなかったが、今までやっていたバレーボールでも全くスタイルや取り組み方が違い新鮮だった。
練習が終わり、それぞれ解散。
私は足がないと家に帰れない。スクールバスももうなく、私は例のセッターの彼の車で送ってもらうことに。
超近所に住んでいた。
この時はまだ彼を好きとかそんな感情はなかった。
(↑ここ重要。好きになるきっかけは1記事書ける)
お互い人見知りなのか(そうなのか?)あまり会話せず家に着いた。
でも道中、同じバンドが好きということが判明した。
車内ではそのバンドの曲がかかっていたので、ちょっとなりきって歌ってみたらあからさまに引いた顔をされた。笑
まだ私のキャラはこの時開花されていなかった。
カナダの部活事情
カナダの高校の運動部は日本のように、1年を通して毎日練習を行うということはない。
シーズンに分けて部活を行う。そのため、違うシーズンでは別の運動部に所属する人も普通にいた。
また、私が所属していたバレー部の練習は毎日ではなく平日は週3回、週末は遠征以外は土日どちらかというスケジュールであった。
いきなりの試合
そしてバレー部に参加し練習に加わったその次の練習の時に監督から、
今週末試合だからね
と言われた。
展開が早いな。
これが私が感じた率直な感情であった。
まだまだチームにも馴染めていないし。
学校に集合してスクールバスを貸し切って同じ学校の女子バレーボール部と一緒に日帰りで若干の遠征をするとのこと。
車中孤独になりそう〜
と思っていた。
試合当日
いよいよ迎えた週末、試合当日。
案の定行きの道中は孤独だったな笑
まだみんな私の名前を覚えてるか覚えてないかくらいの感じだった。
そしていざ試合が始まり、3試合目くらいで私がスタメンになった。
そこで活躍できた。女子部のバレー部たちも応援してくれてる。
俺ゲイだけど、でもなんだかすごい嬉しかったしトキめいた。
海外のドラマで見るような、部活で活躍している男子に女子たちが応援してくれるあの光景。
ランチタイム。
私は自分でサンドウィッチを作ってきていたが皆外食するとのことだった。
(ここで知る。みんなファミリーカードを持っておりわざわざランチを各自で作ったり親に作ってもらったりしないという文化であることを!)
私はコーチの車を貸してもらい一人でパクパク。
試合の帰り
午後の試合も終え、帰路に。
スクールバスの中である男子チームメイトが話しかけてきた。
名前なんだっけ?と。
ここで、印象に残らないと!爪痕を残さないと!
と思ったのかな?
私はそこで、上記した私が好きなバンドのドラマーの名前を伝えた。
そしたら彼にウケたみたいで、
皆聞いてよ、この留学生、○○○っていうんだって!!
と、車内にいる人たち皆に大声で言い出した。
そこで皆から認識されるようになった気がする。
その彼は私の留学生活が本当に引くくらい楽しいものとなるキーパーソンになる。
彼は非常にムードメーカーで最高にナイスだった。
あだ名ゲット
週明け、授業の間で廊下を歩いている時にバレー部の一部が集まって話していた。
そこを通りかかった時、
Hey, ○○○!と言われた。
なんじゃそれ???
と聞いてみたら、私のニックネームらしい。
そのドラマーの名前とある単語を混ぜた造語。
私の内心。
くっっっっっそかっこ良いじゃんンンンンん!!
そしてニックネームをゲットしたことにとても嬉しくなった。
私はある目標を達成したらタトゥーをいれるつもりであるが、その中の一つはこの名前を入れるつもりである。
それから部活に参加するごとに皆と仲良くなり、さらにイじられキャラとなる。
試合前の行事
試合が始まる前に皆でエンジンを組むが、その時にチームメンバーの誰かがランダムで私にある質問をしてきて、それに対し私が大声で決められた返答をしないといけないというプレイができた。
また、彼らが、女子部員に対して俺とイチャイチャしたい?って聞くことを指示し、女子部員がうん♡と言うと言う一連のプレイもできた。
掴んだ楽しいスクールライフ
部活がきっかけで一気に私のスクールライフが充実しだした。
授業の間などに部員と会うと皆絡んできてくれるし、彼らの友達とも仲良くなれて輪が広まっていった。
私は留学開始してすぐに楽しい日々を送ることができた。
週末に泊まりで遠征する機会も増え、道中での皆とのやりとり、道中の景色、真夜中の移動、ホステルに泊まり、そこにあるプールで遊んだりと、こんな楽しいことってあっていのかと思うくらいだった。
ただ一つ、部活のメンバーは皆私より学年が1つ上。
翌年、彼らはもう卒業しているということ。
それだけが考えると悲しいところだった。
馴染みだしたスクールライフ
そしてあっという間に半年が経ち、バレーボールのシーズンが終わった。
その頃には学校には完全に慣れていた。
バレー部以外の友達もでき、スクールライフをエンジョイしていた。
学校でも私のニックネームは浸透しており、○○○=私として共通認識になっていた。
学校で構内アナウンスで私が呼ばれる時も、○○○, come to the officeと先生や学校の職員たちの間にも浸透していた。
あ、ちなみに悪いことして呼ばれたのではないです。一応。
チームメンバーと出会えたことは、私の留学ライフを非常に価値あるものにしてくれたラッキーすぎる出来事であった。
彼らの引退試合、勝てばも一緒にプレーできる期間がもう少し延びることになっていたが、負けてしまった。
でもその試合に私も出られて本当によかった。
最高な思い出で彼等とのバレーボール活動を終えることができた。
ウィンターシーズン突入
バレーボールのシーズンが終わった。
次は何をするか。
そう私が住んでいた地域は地域外や国外からも訪れる人がいるほど素敵なスキーヒルがあったのだ。
私は日本でスノーボードをしていた。
私のウィンターシーズンアクティビティはスノーボードであること以外選択肢がなかった。
(まあ他にやることがなかったというのもあるが。)
後に私はその山で人生初となる救急車に乗る怪我をすることになる。
これまたいつか記事にしてゆこうと。
次回の記事ではセッターの彼を好きになったきっかけ、そして恋心を抱きながらどう過ごしたかを書いてゆこうと思います。
P.S
海外の部活で試合で遠征した時に、遠征先で私と同じようにバレー部に所属している現地の高校に通っている、日本人と会う機会もあった。
女子も男子も。
”日本人ですか!???”って聞かれた時のあの感覚は結構好き。
あああ同志だあああ!みたいな感覚。
彼らが、試合がない時に私たちの試合を見学して応援してくれてる時、日本人って良いなーと思うとがあった。
カナダ高校留学 〜念願のカナダハイスクールライフの始まり〜
こんにちは。
私は今モントリオールに住んでいてブログを更新しているので、皆さんにとっては、おはようございますですね。
(モントリオールでの暮らしについては追々話してゆきます。)
前回、カナダ高校留学、日本出発からホストファミリーとの出会い、学校が始まるまでの過ごし方について記事を書きました。
今回は現地の高校登校初日について書いてゆきます。
- 登校初日 スクールバスを使用して
- いざ学校に到着
- 留学生たちとの出会い
- 授業の組み立て 1学期目
- 授業の始まり
登校初日 スクールバスを使用して
私が住んでいた地区は学校まで少し距離があるため、スクールバスを利用することになっていました。
家の前にある大きな公園がピックアップ場所となるとのこと。
ホストママは私が通う高校で働いていた。彼女は早く勤務先へ向かう為、私が起きた頃にはすでに犬の散歩を終え、家をでる準備をしていた。
私の家は朝ごはんは各自で準備することになっていた。
私はホストブラザーと朝食を済ませ一緒に家をでた。
スクールバス
これは私が憧れていた一つである。
そしてよくドラマや映画でみていたままの姿のスクールバスが到着。
(後に知ることになるが、私の地区を担当していたドライバーは私のホストマザーの姉であった。)
内心ドキドキである。
どこに座れば良いのか?ちゃんと挨拶できるか?や、学校に着いた後どうすれば良いのか?等、緊張していた。
いざバスに乗ってみると、ほぼ満杯であった。
その為、ホストブラザーと私は前後では並んで座ったが別々の席に座った。
(スクールバスは横並び二人掛けの椅子になっている)
途中でまた何人か生徒をピックアップし、学校に到着。
いざ席を立とうとすると、ホストブラザーから、
ここは中等部までの生徒の学校で僕たちの学校は次だよとのこと。
カナダは場所によるが、大体は
① 中学と高校が同じ校舎
② 中学と高校は別の校舎
という構成になっている。私が通っていた高校は②であった。
ちなみに日本で言う学年は海外ではGradeと言う名称である。
中学1年生 = Grade 7
中学2年生 = Grade 8
中学3年生 = Grade 9
高校1年生 = Grade 10
高校2年生 = Grade 11
高校3年生 = Grade 12
私は高校2年生から通ったのでGrade11であった。
いざ学校に到着
気を取り直し、いよいよ高校に到着。
人口がそもそも少ないので割とコンパクトな造りであった。
校舎に入ると学校の様子をみることなく、玄関入り口すぐにあった先生たちのオフィスに案内された。
私と同じく初めて登校する留学生たちがいた。
ドイツ人2人と挨拶した。
中学生の頃、海外の人たちと交流することができるサイトでドイツ人とメールのやり取りをしていたが、ドイツ人と実際に会うのは初めてだった。
そしてオフィスで手続きを行い、ESL(English as a Second Language)と呼ばれる留学生たちのクラスへ向かった。
ESLのクラスはいくつかあり私はその中の一つに割り振られた。
留学生たちとの出会い
教室へ入ると、留学生たちが約10名程いた。
そこには日本人もおり、この世界の片隅にあるびっくりするほど田舎なところに同じ日本人がいることが嬉しかった!
他にも、台湾人、ベルギー人、ドイツ人、トルコ人etc...
と様々な国から留学生たちが集まっていた。
先生も含め全員で自己紹介をし、学校での過ごし方、英語の学習方法、学校でのルールについてガイダンスを受けた。
また、ロッカーも各自割り振られた。
カナダの高校は日本のようなクラスというものはなく大学形式が採用されている。
その為皆各自ロッカーに必要な物を入れ、授業が終わるたびに終わった教科の教科書などを置き、次の授業に必要な物をとってゆく。
そしてそのロッカー
ドラマでみたやつだー!
と感じた。
壁一面に縦長のロッカーが連続して設置されている。
かっこいい。
授業の組み立て 1学期目
そして次は、1学期の授業を組むことを行った。
私が通っていた高校では、1年を2学期に分ける文化だった。
必修意外、数ある授業から自由に選択し決定後、その1学期は各自選択したクラスの単位を取得してゆく。
スクールカウンセラーと話しをし、1学期目はPE(体育)は確実にとった方が良いよと言われた。
スポーツを通じていろいろな生徒と仲良くなれて学校に早く馴染めるようになると言うことだった。
私は中学時代にバレーボール部に所属していたので、現地でもバレー部に入部するつもりでいたが、PEも1学期目に入れて損はないと思い、カリキュラムに加えた。
カリキュラムを決めて約1週間は、あくまで仮であり気に入らなかったり他の授業に興味が向けば変えることも可能である。
私は最終的に何も変えることなく、必修であった科目郡とESL、そして自由に選択したPE含めた教科で1学期を迎えることになった。
私のカリキュラムの中にはホストブラザーと被っている科目も多々あり、心強かったことを覚えている。
私が通っていた高校の1コマは90分。
日本での授業のほぼ倍であった。
集中力が欠けている私には大変であった・・・。
授業の始まり
印象に残っているクラスはやはりPE、そしてサイエンス。
初めて参加したPEのクラスは緊張した。
30名ほどいるクラスメート。もちろんホストブラザー意外、知ってる人が誰もいない。そしていきなりクラスを半分に分けチーム対抗でドッジボールが始まった。
ホストブラザーとは同じチームにならなかった。
周りはみんなお互い顔馴染みで仲良くしている。
緊張。
でも皆留学生の私に興味を持ってくれて話しかけてくれた。
そしていざ試合が始まり、助け合い励まし合いで一気に仲良くなれた。
やはりスポーツでの交流は個々のバックグラウンドや人種や国籍や歳などは全く関係ないんだなと感じた機械であった。
(もちろん、スポーツ以外でもこれらは関係ないが、仲良くなるスピードはスポーツは早いと思う。)
そしてサイエンス。
完全オールイングリッシュの座学授業。(そりゃそうだ)
ムズカシイ。。
専門用語がよく出てくるし、こちらが英語を把握している前提で授業が進む。(そりゃそうだ)
留学生は私とホストブラザー、そして現地で出会った日本人1人。
対し、他約30名は現地カナディアン。
大丈夫か??
と不安になった。
そこから少し経つと小テストもよくあった。他の授業でも宿題や小テストがあった為、家での勉強は欠かせなかった。
その頃、私は部活に参加していた為、両立は大変だった。
でも特に苦と感じることはなかった。
なぜなら、私が夢見ていたカナダ高校留学。
全てを楽しんでいた。
登校、海外の授業の雰囲気、友達との関わり、ランチ、部活、下校、宿題。
新鮮で充実しすぎいて寝る時はバタンキューであった。
次の記事では、スクールライフが始まってからすぐに加入した部活のことについて書いてゆきます。
この部活に参加したことで私の留学ライフは最高であり至極となった。
カナダ高校留学 〜日本出発から到着、学校が始まるまでの日々の過ごし方〜
こんにちは。あっという間に8月ですね。
前回のブログでは予定していた留学の予定が大幅に変わった旨をお話し致しました。
今回はそん中で父親から出されたカナダ高校留学をするための条件。
父親が選んだ高校、彼も私も下見をしたことがなく、どこかもよく分からないカナダの高校へ到着し学校が始まるまで何をしていたかの話をしたいと思います。
私が高校留学をした現地の高校がある町は、バンクーバー から定員約10名のプロペラ機に乗って約1時間した場所にある。
日本を出発する前日くらいに、父親が私を叱責した。
そしてそれを
”これがお前への餞の言葉だ”
と言ってきたのを覚えている。
なぜかというと、高いお金をかけてカナダへ行くことで家族に迷惑がかかるからである。
いよいよ出発の日、中学時代の部活のチームメイトが一緒に空港まで来てくれた。
両親も私を見送るために車を出してくれた。
人生で初めて母親が泣いてる姿を見た。
寂しい気持ち、やっとカナダに行けるということ。
”やっと行けるね、よかったね、おめでとう”と言って握手をしてきてくれた。
今でもその言葉を覚えている。
母親は私がカナダに行きたいということ、そして父親に反対され始め予定していた留学が叶わなくなったこと、そしてそこから叱責される日々をずっと見ていたし、そして母親も一緒にとばっちりを受けていた。
飛行機に乗り、母親からの手紙を見て、私はひたすら泣いた。
いよいよバンクーバーに到着。
少しだけ話が遠回りするが、
バンクーバー国際空港に到着したとき、”本当だったら去年の今頃ここに到着していた。そしてこれから乗り継いで違うところへ行くのか。。。”
という悲しい気持ち、でもまたここに来られたという嬉しさ、でもここで暮らしている同年代の人々のことを考えると襲ってくる劣等感。
いろいろな感情があったことを覚えている。
そして、バンクーバー国際空港から乗り継ぎ便に乗った時、
驚いたことが2つ。
1つ目は、私が座った席が緊急脱出用の扉に面している席であった為、
スチュワーデスが私に、”何かあった時君がその扉を開けて脱出るのだ”と言われレクチャーを受けた。
これ俺がやるの?まじかよ!と思った記憶が。
2つ目。
離陸前、座ったプロペラ機の席から外を見ていると、何と職員たちがプロペラを手動で回し始めたではないか!
いやいやいや待ってくれよ自動ちゃうんかい!と心の中で墜落する覚悟をしました。
そしておまけにもう一つ覚えてること。
乗っていたエアカナダのスチュワーデスは男性だったが、そのスッチーがマジでイケメンだった。
男性のスッチーってゲイの確率多いからもしかしたらゲイだったのかな?(そうであってほしいワラ)
そして離陸し、すぐ着陸態勢へ。
飛行機の窓からこれから到着する町が見えた時の正直な感想。
ちっさ。
森を少し改造してそこに町をポツンと作ったような見た目であった。
ここで本当にやっていけるのだろうか、何をして過ごせばいいのか?
という不安が一気に出できたことを覚えている。
空港に到着してすぐ、ホームステイでお世話になるホームステイマザーが待っててくれて声をかけてくれた。
私がホームステイすることになっていた家は、彼女だけがホストであとは私と同じ留学生のスイス人がホストブラザーとして過ごすことになっていたのだ。
空港から車に乗り家へ向かう道中、本当にここは私がこれまで住んでいた同じ地球なのか?と思うほどの田舎町であった。
ディスってるわけではない。私にとって新鮮だった。こんなところがあったんだと。
どこまでも見える遠い景色、穏やかな雰囲気。
そして気づいたことがある。
空港から少し近い場所に微かなダウンタウン(あれはダウンタウンと呼べるのか?と思うほどの規模)があったが、そこを抜けると。。。
信号がない。笑
一つも。
家に到着。
可愛らしい一軒家。
犬2匹、猫3匹、鳥数匹がお出迎え。
動物好きの私には嬉しい歓迎だった。
その時、ホームステイブラザーのスイス人は近所の台湾人の友達と遊んでいるということだった。
そして家の中の紹介や家でのルールの説明を受けているうちに、スイス人と友人の台湾人が家に戻ってきた。
そこで初めて会話を交わし、そのまま私も一緒に遊びに出かけることに。
そこで何をしたのかは覚えていない。
しかし、みんな快く受け入れてくれたのを覚えている。
実際に学校が始まるまで、よく彼らと遊んでいた。
カラーボール(サバゲーの一種。銃弾にインクが入っていてヒットしたことがすぐわかる)をしたり、例のダウンタウンへ行って遊んだり、台湾人の家で遊んだりと。
毎年カナダの高校ではサマースクールが開講されている。
留学していて夏休みを利用して一時帰国しない留学生、翌年度の本格的な留学を視野に入れている学生たち、その年に留学し学校が始まる9月まで英語や現地に慣れるために参加する人たち
と様々な人が参加しているイベントだが私は参加していなかった。
だから学校が始まって友達ができるか不安であったが、ホストブラザーや台湾人の友達と出会えて本当に良かった。
次回のブログでは、いよいよ始まったスクールライフについて書こうと思います。
(今私がいるモントリオールに関する記事は今しばらくお待ちください。)
P.S.
当時、私はPCを現地へ持っていなかったので、ホストブラザーのスイス人の部屋に行きよくPCを借りていた。
私はしばしば例の当時バンクーバーでお世話になったエージェントとそこで話していた。
そのエージェントも場所は違えど、来ることができて本当によかったねと言ってくれた。
彼女は私がカナダ、特にバンクーバー が本当に好きなことをよく理解してくれていた。
彼女も高校生の時からバンクーバーに留学しそのままUBC(カナダ5大ユニバーシティ)に通い卒業後現地で就職した。
彼女との出会いは私にとってとても大きかった。
なぜなら彼女と出会う前に私が頭で描いていたことをそっくりそのままやっている方だったから。
そして私のバンクーバーへの思いをよく理解し、バンクーバーのあの独特な雰囲気を好きなことについて共通した意見を持っていた。
いつでも応援してくれていた。
彼女は今日本に住んでおり、今でもやりとりをしており、たまに飲みに行く。
実はカナダ留学の2年目(高校3年生)の夏に日本へ一時帰国し、カナダへ戻ってくるときにトランジットまで時間があったためバンクーバーに立ち寄ったときに再会したのだ!
懐かしのバンクーバー!そして彼女との再会!
楽しかった。
私がバンクーバーを下見した時は冬であったが、その際は秋へ変わる頃の夏だった。
やはり良い景色だった。
ガラス張りの建物群。街の雰囲気。空気の香り・感触。
私があの冬にあの街で感じた感覚がみるみる心と体に戻り、本当にここが好きなんだなとまた思ったきっかけでもあった。
アジア人だらけと言われている街であるが、私は全く気にしない。
何より好きだから。そしてアジア人が多いのはその分住みやすいからであると思っている。
私はたまに高校留学についてお子さんを持つ親御さんや、実際に留学をしたいと思っている方々に相談される機会がある。
個人的に思っていることだが、
留学する上で大事なポイントの上にくる項目。
それは
その土地をどれだけ好きになれるか/好きであるか。
と私は思っている。
その場所で生活する姿を想像し、ワクワクし、そこでの生活を頭でポジティブにイメージすることができるかというのは特に高校留学では重要な項目であると思っている。
それがイメージできればもう行くことに越したことはない。
イメージでき、そこが本当に好きなのであれば行くべきなのだ。
下見なしでそのまま現地に行くパターンもあるが、その場合は、インターネットでいくらでも現地の雰囲気などを調べることができる。また、いろいろなツールがあるため実際に現地にいる留学生にコンタクトをとることもできる。
インスピレーションは非常に大事な部分になると私は思っている。
もちろん、行ってみて、想像してたところと全然違ったということもある。
しかし大事なのは、
行きたいと思っているところに行く。
という行為が、のちに、色々と自分の糧になっていく。
自分の決断力が磨かれ、自信に繋がり、自分に責任を持ち、自分の考え、自分の行動にに誇りを持てるようになるからと思っている。
カナダ高校留学 〜思わぬハプニング〜
こんにちは。
前回、私がカナダに留学をしたいと思った理由を述べました。
今回は、カナダ高校留学の父親からの反対から実際にカナダへ出発するまでについて書いてゆこうと思います。
- 父からの急な反対
- エージェンシーへの断りメール
- 新たな反対理由
- 高校留学志望仲間が続々と出発
- 再度の高校留学挑戦 父親への説得の日々
- 父親が出した条件
父からの急な反対
バンクーバーにある高校を下見し、行きたい高校を見つけ、現地で付きっきりでお世話をして頂いていたエージェンシーにもその旨を伝えたが。。。
ここでまさかのハプニングが発生。
父親が急に留学に対し反対し始める。
そう、私の父親はいつも何かがきっかけかわからないが急に意見が変わる。
(今後のブログで父親との確執、毒親、アダルトチルドレンに繋がることを書いていこうと思います。)
反対し出した一つの理由。
その留学エージェンシーの担当者が日本人ではなかったこと。
何人ということはここでは伏せるが、そう、父はある国々の人種を嫌う人間なのである。差別、偏見。
そのエージェンシーの方々が日本にきたとき、新宿にあるホテルのラウンジで父を含めミーティングを行った。
その際、エージェンシーにいる偉い方も同席した。
そして父はその方が日本人ではないことに対し、気に入らない、ということで私の留学の道は閉ざされた。
エージェンシーへの断りメール
当時(今もであるが)、父は一切PCを扱うことができず、
父とエージェンシーとのメールのやりとりは、父が紙に書いた文を私が打ち込み送信していた。
そして、父が彼らに留学の断りのメールを送る際も、父が書いた文章を私が打ち込むことになった。
そのメールの内容は今でも覚えている。
詳しくはここには書かないが、よくこの文章を私に打たせるなと、よく差別的なメールを私に打たせるなと、よく私の留学の道が閉ざされる内容を私に打たせるなと、それはとてもとてもショックであった。そして文末には彼らへの嫌味の一行もあった。
その後、私は他のエージェンシーを使い、私が行きたかった高校へ行くのはどうかと父へ提案。
しかしそれも"NO"。
私は混乱でしかなかった。
私が留学をすることを反対するのであれば、なぜあのときわざわざ現地へ下見へ行かせたのか。
なぜ期待させるようなことをしたのか。
全く理解できなかった。
私はどうしても行きたい高校が現地にあった。
しかし父親のエージェンシーが気に食わないという理由で、私の高校留学の道は閉ざされるのであった。
新たな反対理由
そして新たな反対理由が生まれるのであった。
もしカナダの高校へ留学し、日本に帰りたいと思ったとき、カナダで取得した単位は日本の高校に反映することができるのか。
日本の学校は4月から、カナダの高校は9月から。
私は一貫校へ通っていたため、中学を卒業しそのままエスカレーター式で高校に進学した。
当初、父が留学に賛成していた時のプランでは、高校1年生の8月まで日本の高校で過ごし、カナダの高校へ進学する9月に日本の高校をとりあえず1年休学し、カナダへ留学するというものであった。
父が留学を反対することになった新たな理由はここにある。
日本の高校を休学し、カナダに留学したとして、もしカナダに留学をして嫌になったり何かあって帰国することになった場合、カナダで取得した単位を日本の高校に反映し、留年することなく復学ができるかということであった。
そこから私は当時通っていた高校の進学担当の方と話し合いを重ねる日々が始まる。
私の高校からは海外へ留学した人はいるものの、途中で帰ってきて現地で取得した単位をそのまま日本の単位に変換して留年することなく進学した事例がないため、先生たちもそれが可能なのかがわからなかった。
父から預かった先生への質問を先生へ話し、もらった回答を父へ説明するというイベントが発生。
それでは埒が明かないということで最終的に父親が直接、先生方と話すことになった。
高校留学志望仲間が続々と出発
そんなこんなしてるうちに同じ高校に通っていた同学年の友人や、英語塾で出会った同じく高校留学を志していた友人たちが続々と現地へ出発してゆく。
中にはバンクーバー へ行った友人もいた。
私はただただ悲しく辛い日々であった。
私は相当にそこで病んだ。
”本当だったら今頃あの高校に通っていたいたのに。”
”こんな思いをするのであれば留学をしたいと伝えたときに反対してくれればよかった。”
”自分は何か悪いことしたのか。”
そして高校1年生、8月を迎え、もうカナダへ行くことが確実に叶わなくなった。
私は高校2年生からの留学を目指すことにした。
再度の高校留学挑戦 父親への説得の日々
そこから毎日、父親を説得する日々が始まる。
今後述べるが、父は癇癪持ち、怒鳴る、母親が父と同じ意見にならないと怒りの矛先が母親になる。という傾向がある。
私はどうしてもカナダの下見をした高校に行きたかった。
いくら怒鳴られようが怒られようが、その気持ちは変わらなかった。
父親が出した条件
そしてようやく父親が折れた。
しかし出された条件がある。
父が選んだカナダの高校に行く。
ということであった。
私には現地に行って直接見て行きたいと思った高校がある。
しかし父親は、父親も私も見たこともない新たに父親が見つけたエージェンシーから紹介された高校に行くことを条件にしてきた。
しかも全く別の地域。
当時私は本当にわからなかった。同じ費用をかけるのになぜなのかと。
そう、父は、私が選んだものではなく、父が選んだものを採用したい性格なのである。
要はコントロールをしたいのである。
昔からそうだった。私(人)がしたいこと、欲しいものを採用するのは気に食わないというかそれを採用すると自分が負けと感じる気質がある。
そのため父自身の意見や価値観を採用するのである。
もしくは私のマインドがおかしいんじゃないかと自分の意見を思い切り述べてくる。
(そうやって自分の意見に従わせようと本人は気づかないうちにしている)
私が欲しい、したいと心から思ってるものほど。
でもお金を払うのは私ではない。
父親なのだ。それは事実であり、私にはどうすることもできなかった。
カナダに行けるだけで満足できないのか?
という父親からの意見であった。
確かにそうだなと、カナダの高校に行くことは夢であった。
カナダで下見をしたあの高校に行くことが夢であったけれども、カナダのどこかにある高校に行けるだけでいいのだと確かにその時は感じたのであった。
そして高校2年生の8月いよいよカナダへ旅立つのであった。
カナダに高校留学できたことは父親には本当に感謝している。
また、精神的にサポートしてくれた母親。
金銭的に援助してくれた祖父祖母。
カナダとの関わり、道を作ってくれたことにとても感謝している。
余談
いつか私の気持ちの整理がついたらこのブログは父親に見せるつもりである。
父は、ある事実が頭の中で違う事実になることがよくある。
きっとこのブログを見たらきっと父の頭で変換された内容を事実として反論してくるであろう。
でもここに書いてあることは確かな事実であり、鮮明に覚えている事実である。今も私を苦しませている私の人生の中で起こったトラウマの一部である。
あの多感な時期に起こった、キラキラとしていた希望を目前で閉ざされた夢。
これは事実なのである。
でもだからと言って私は誰も責めたり誰かのせいにするつもりはない。
これは私自身の心にある大きな傷を少しでも解消できたらと、この体験がずっと頭と心を支配しているこの現状を少しでも楽にするためのものである。
私はあの時確かに感じた、”ここで生活をしたい、ここにいると幸せである、ここで感じる空気・雰囲気は自分が生きていく環境にとても大事であるということ、この場所と自分の心はつながっている、共鳴している、この気持ちを大事にしたい、だからこの歳のうちからここで生活したい”という気持ち。
そしてあの時それができていたら今頃どうなっていたんだろうというパラレル。
その思いにずっと縛られて生きづらいと感じる思い。
この経験で私は不安を感じやすくなった。
順調に、そして物事が目的に進んで行った時、目前でダメになるかもしれないという思考になった。そして私は自分を責めやすくなった。
誰しもこのような経験はあるのかもしれない。
でも、どうしてもかなえたかった、それが私の生きる目的となっていたことが叶わなくなったこの体験は私を変えた。
そもそも私は繊細で物事に固執する性格な故にこうなのかもしれない。
でも実際、それが私なのである。
私が実際に肌で感じかなえたいと思った事実は変えられない。
それを否定されればされるほど、私は自分の心のパワーが落ち、落ち込む。
そして落ち込むと、その思いを持つ自分が悪いのか、変なのかと自分を責めるという負のスパイラルが始まる。
父親からしたら私の気持ちが間違っているのかもしれない、おかしいのかもしれない、理解できないのかもしれない。
でも、それに従わなければならないなんていうことは本来ないはずなのである。
自分の価値観に合わなければ人を貶したり怒鳴ったり押し付けたりするような人の心の陣地に土足で入ってくるということは本来あってはならないと思う。
いつかこの体験が自分の中で納得できるようになればいいなと思っている。
これまで何度も無理やり納得しようとしてきたが、できなかった。
だから傷口に塩を塗ることになるが、でも書いてみる。
これは自分の中で必要なプロセスなのである。
次のブログでは、現地での高校生活の始まりについて書いてゆこうと思います。
長々とそしてポジティブではないことについて書いていますが、このことは事実を書いて行きたいと思っています。
この話題以外のことはポジティブに書けるので、もう少しお付き合い頂けたら幸いです。
私がカナダに高校留学をした理由。
私は高校生の時にカナダへ留学し、現地の高校を卒業しました。
ざっと下記のように書いていこうと思います。
- 高校留学しようとしたきっかけ
- いざ現地の高校を下見へ
- ゲイとして生きていいと思えた場面
- 下見した感想
- 帰国後の英語準備
- 高校留学しようとしたきっかけ
中学生の時は部活に明け暮れ勉強するというプライオリティは私の中では低めでした。
そんな中、海外に興味を持ち、洋楽を聴き、洋画を見て、海外に行きたいなと思うようになりました。
私がなぜ海外に憧れを持つようになったかというと、海外の中学生や高校生が送っているスクールライフの様子に強く惹かれ、こんな高校生活を送りたいなと思ようになっったからです。
さらに私は、当時からゲイと自覚をしていたが、誰にも相談することができませんでした。
当時はまだLGBTQに関しての理解が今ほどあまり無かったように思えましたし、
私もそもそも誰かに言いたいとも思っていませんでした。
でも、周りとのセクシャリティーのギャップに悩んでいました。
”お前いつ彼女できんの?”
”お前どういう女の子がタイプなの?”
”○○がお前のこと好きだって!”
etc...
恋愛について話す時はいつも女性に置き換えて話したり、
話を作ったりと今思えば大変だったなと思います。
彼女を作らない理由は、留学をするからということでなんとか誤魔化していました。
そして留学したいことを両親に伝えると、”いいよ”とのこと。
(しかしその後猛烈な反対を受け四苦八苦となる。これは今後ブログで書こうと思う)
そこから私の留学調べが始まった。
国はすぐに決まった。
カナダ バンクーバー
理由は
直感
こういう時の私の直感は冴えてる。
これまで私は割と直感に従って生きてきていた。
もちろん他の国々も調べた。でもやはりバンクーバーに行きたい。
直感でバンクーバーに行きたいと思ったが、調べると更に行きたい。
- いざ現地の高校を下見へ
行きたいとことが決まればあとは学校探し。
父の知り合いが航空関係の仕事をしており、
そのツテでバンクーバーにオフィスを構える留学エージェンシーを紹介してもらい、
そこからコンタクトをとるようになりました。
中学3年生の2月。
修学旅行には行かず、いざカナダ、バンクーバー へ。
私の直感は正しかった。
街の雰囲気。
人々。
ゲイフレンドリー
そして、自分の心と共鳴している。
ゲイとして生きていいと思えた場面
担当してくれていたエージェントさんがよく夜ご飯に連れて行ってくれた。
その時に、男性2人と年配の3人で食事をしていたテーブルの隣になった。
2人の男性のうち、1人は10代後半から20代前半の男性、もう1人の男性は30十代前半くらいの男性。そしてどちらかの母親できていた。
そう、その男性2人はカップルだった。
見つめあったり、していた。
私は心の底から、これがいいの。と感じた。
私も彼らのような存在になりたいし経験もしたいと強く願った。
また、その光景に対し、周りにいる人たちがなんの気にも留めていなかったこと。
衝撃的であり、非常に羨んだ体験であった。
そして思えた。
ゲイでいることは悪いことなんかじゃない。ゲイでいいんだ。今日本で同じようなことはできないかもしれないけど、ここに来れば自分のセクシャリティーについて胸を張ることができ、自分を責めたり、自分を偽らなくていいんだ。
- 下見した感想
約5日の滞在で学校見学で確保されている日数は3日。
約12校の高校を見学。
そして、自分が想像していた学校の雰囲気にぴったりあった学校と巡り合った。
”ここに行く”
と、そう決心した。
あの時の学校からバンクーバーのダウンタウンへ向かっている車の中(留学エージェンシーの担当者が高校をずっと案内してくれていた)からの
景色、流れてた音楽、雰囲気は決して忘れない。
登下校のイメージ、授業のイメージそれを考えるだけでワクワクした。
”また半年後、ここに戻ってくる。”
(現地の学校は9月スタート)
そう思った。
エージェントにもまたすぐ会いましょうという話しをし、帰国。
帰国後、父親に見学した学校の説明をし、行きたい高校を伝えた。
留学エージェンシーにもその高校に通いたい旨を伝えた。
- 帰国後の英語準備
私は高校1年生の9月にむけて文法の勉強からスピーキングの勉強を始める。
高校生から留学とは言ってももちろん現地の高校では全編英語となる。
留学生のクラスもあるがそれで単位が足りるということはない。
当時私は英語を勉強していたと言っても問題なく意思疎通ができるレベルではなく、日本にある留学会社の留学する人向けの英語準備コースのような物を受けていた。
カナダに行くことがとてもとても楽しみで楽しみで毎日ワクワクしていた。
つづく。
このブログでは、カナダのこと、留学のこと、またその挫折。
私がどうしてこんなにもバンクーバーが好きなのか。
日本での社会人経験、そこでのパニック障害、父親との摩擦、ライフスタイルなどについて話していこうと思います。
まずは、私のバックグラウンドなどについて話をしてから追々色々お話を共有できたらと思っています。