元GAFA、気ままなゲイのモントリオール留学

父のことについて

こんにちは。

すっかり更新が滞ってしまいました。

 

父のことを書こうとするとやはりどうしても書くまでの気力や体力、書いてるうちにトラウマがフラッシュバックしたり、なかなか更新できずにいました。

なので、大きなカテゴリを作り、それぞれに対する記事を短めに書いてゆくことにしました。

 

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モントリオールはもう完全な秋となり、10度行かないことがザラにあるようになってきました。

でも秋空は良いですね。秋の香りも好き。

 

 

早くこの父の話題を書き切り、自分の中で区切りをつけ、モントリオール留学に関してや現地のこと、これからのことについて書いてゆきたいと思います。

 

私が見てきた、経験してきた、父の行動、そして育ってきた環境は大きく分けてこのようなことです。

 

-いつでもどこでも何に対しても切れ叫ぶ父

-楽しいはずの食事の会、集まりでも気に入らなければ叫び周りを悲しませる父 

-家族団欒を知らない私

-子供の部活に参加し乗っ取り自己満でいっぱいの父

-自分が優位に立ちたい、対等を知らない、上か下かで判断する父

-母を徹底的に潰しにかかった父

-人のせいにする父

-寝てる母がいる部屋に向かって叫ぶ父

-場所を選ばずどこでも切れ叫び責める父

-話していると何でも自分の過去の栄光や苦労話につなげる父

-過去の栄光を何度も何度も話しそれをどうしても人に伝えたい父

-どうしても意見、アドバイスを言いたい父

-でもそれに対し違う意見を述べられると否定された気分になる切れる父

-髪の毛を鷲掴みにされ持ち上げられる母

-音で威嚇する父

-物を投げつける父

-顔面を殴られ出血した私

-自分が一番正しく他者の価値観は敵とする父

-自分が一番苦労をし大変な思いをし、他人がしたことと比べそれは自分に比べて大したことがないからと悲劇のヒロインになる父

-何かを話すと全部自分の思想、価値観につなげジャッジする父

-事実をねじ曲げる父

-大晦日に叔母に叫ぶ父 それが人生最後の大晦日となった祖母

-否定・文句ばかりの父

-何にでも口を出し、それを採用しないと気に食わない父

-見栄を張る父

-言うことを聞いて欲しい父

-男尊女卑、差別をする父

-ネガティブな父

-自分は良くて他者はダメ 

-人を下げることで自分の自尊心を保つマウント父 

-自己満足な父 

-他人の幸せが気に入らない父

-八つ当たりし家族をサンドバックにする父 

-夢を潰す父

-求めてる反応が返ってこなかったら切れる父

-言う通りにさせ、満足し、誇り、求める父 

-自分に同意しないと怒鳴り人格否定をする父

-うつ病と診断された私、メンタルクリニックへ行ったことに激怒し私の人格、人生否定し怒鳴った父

 

 

と私はこのような環境で生きてきました。

 

私は不安障害、パニック障害(うつ病)です。

今はもう薬なしで生活ができるようになっています。

 

私はこのブログを通して自分自身と向き合うためにもこれらのことを書いています。

 

そして、もし私と同じような経験をしてきてトラウマを抱えている、生きずらさを感じている、不安、パニックを持っている方が共感し、今抱えているものは自分1人だけではないんだということを感じて少しでも役に立てたら良いなと思っています。

 

私が育ってきた未発達の家庭で育った環境で構成された私の心と思考。

 

このまま生きていくとするのであれば、誰のせい、環境のせいにすることなく、この自分と向き合って寄り添っていくことが大事だと思っています。

 

あの時々のトラウマを完全になくすことをこれまで何回も何回も取り組んできました。

でも完全になくすことなんでできないんですよねきっと。

 

多分、なくすのではなく、これまでの出来事、今の自分、苦しんでいる自分を認め、寄り添い一緒に生きていくことが大事なのかなと思います。

 

そうして今という軸で目の前のことに取り組み、過去のことに飲み込まれそうになり、破壊的な思考になっても、そんな過去もあったよね、と認めた上で、

 

ああこんなこともあんなこともあったけど、それでも今、楽しくできてるな 

 

と感じられるようになれば過去に対するマインドや考えも少しづつ変わっていくんだと思います。

 

これが本当に難しいんだと思います。だから今でも苦しんでるんだと思います。でも、一歩一歩で良いからほんの少しづつ、前に向かって行ければ良いんだと思っています。

 

 

 

カナダ高校留学 〜帰国後の地獄な日々。父によるモラハラの始まり〜

こんにちは。

カナダとアメリカの国境はクローズが延長されており、9月21日まで保留となっています。また延長される可能性があります。

(モントリオール留学については後日書いてゆきます。)

 

前回、カナダ高校留学を終え、帰国する際の空港でのトラブル。空港に5泊したことを記事にしました。

 

lgbtlifecanada.hatenablog.com

 

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今日は、私が日本に帰国してからの日々を書いてゆきます。

 

この記事から、留学の話というより、父から受けてきた言葉、精神的な暴力について書いてゆきます。

 

ここに書くことはダークというか、読んでいい思いをされない方が多いと思います。

でも、私の心の整理のために書きます。

長年心に溜めていた物をここでアウトプットして少しでも当時のトラウマをリリースできたらいいなと思っています。

 

また、私が当時悩んでいたことを話すことで、今それで悩んでいる方に少しでも1人ではないよということを伝えたいと思っています。

 

 

  • 私が育った環境
  • 小さい時から気付いていた父親への違和感
  • 酒を飲み祖父母に向かい叫び散らす父親
  • 本格化した父親による母へのモラハラ
  • 人のせいにすることで自分に納得する父親
  • 永延と聞かされる、母親の悪口、過去の栄光
  • どうしてもわかって欲しい自分の過去の栄光
  • 出ていけと言われた母親
  • 恐怖の食卓
  • 母親を庇うと拗ねる父
  • 場所を選ばずどこでも叫ぶ父
  • 私のトラウマ
  • 今思うこと

 

私が育った環境

まず、

- 私は父から叫ばれて育ちました。

- 私が思っている思想、する行動、述べる意見、趣味についてほぼ否定されて育ちました。

- 求めていない意見を述べられ、それに従わないといけないようにコントロールされて育ちました。

- 母、兄弟、両祖父祖母に叫んでいるところを見ながら育ちました。

- 特に母を精神的に追い詰め、とことんサンドバックにしているところを見て育ちました。

- 過去に起きてうまくいかなかったこと、悔やんでいることを今更掘り起こし、母親のせいにして散々叫び、精神的に追い詰めるところを見ながら育ちました。

- 同じ過去の栄光の話を何回何回もことあるごとに話されて育ちました。

- 彼が求めていることを言わないと・彼の意見に同意しないと癇癪を起こされる環境で育ちました。

- 一つに切れると、これまでのことを思い出してそれらについてもキレだし、人格否定をされて育ちました。

- 彼を不機嫌にさせてしまったらその矛先が母親に向かう環境で育ちました。

- 萎縮しながら育ちました。

- 食事をしてる最中、父親がお酒を飲みながら私や家族に叫ぶ切れるという環境で育ちました。

- 何にでも口を挟み、その意見に沿わないとキレられる環境で育ちました。

 

よって私は父の機嫌を損なわないように生きてきました。

父親がいる環境が地獄でした。

家族団欒という物は私は知りません。

いつキレて叫び出すのか、冷や冷やしながら共に生きてきました。

自分の意見は極力言わず。

叫び散らされ責められても、反論しないで生きてきました。

 

波風立たないように振る舞い

機嫌を損ねないような立ち回り

彼が喜ぶであろうことや当たり障りのないことを言ってきました

 

それでもどこかに地雷があり、それを踏んでしまった時、自分を責めまくって生きてきました。

地雷を踏んだことで自分を責めるのではなく、地雷を踏み父親から叫び否定された内容を自分で肯定し、ああ、そうなんだ自分てダメなんだなと思って生きてきました。

 

 

 

小さい時から気付いていた父親への違和感

私は父親が他の父親と大きく違うことについて早いうちから気がついていましたが、彼の意見にいやいやでも従って生きてきてしまっていました。

 

父親に従わなかったときのことが怖い。それによって家族に矛先が向くことが怖い。

そして従わせたときの父の勝ち誇った態度。

 

この環境から離れないといけないと本気で気がついたのは私が30歳を過ぎた時でした。

なぜ今まで、離れられなかったのか。

ある意味洗脳されていたのかもしれない。

 

でも一つだけ言えること。

 

私が彼にとって荒波を立てたことで、怒りの矛先がまた家族の誰かに向かう。

もしくは、私が彼から離れている間、私は母親を守れなくなる。

だから離れたくても離れられなかった。

どんなことをされても親は親。離れるのは親に対して失礼、不条理だと思っていた。

これは非常に大きなポイントだった。

 

酒を飲み祖父母に向かい叫び散らす父親

私がカナダから帰国したとき、伯父、伯母が家に来てくれた。

そして皆で食事をしている最中、父親が祖父祖母に対し、癇癪をおこし叫び出しました。

せっかく皆で集まって食事をしているのに。

 

でもこれは我が家では平常運転なのだ。

本来なら異常な光景も私は、ああ懐かしい光景だなくらいにその時は思っていました。

 

彼が叫ぶ内容はいつも同じ。

- あの時こんなことをしてやった

- 祖父祖母のせいでこうなった

 

その時はそのような光景が異常とは思っていたが、その光景を正面から受け止めず受け流すことができていた。

 

帰国後、私は日本の大学に入るべく、いろいろな大学を回った。

そして入りたいと思う大学の学部を見つけ、それに対しての受験準備が始まった。

当時、実家の家計はボロボロで帰国を余儀なくされたくらいなので、受験の準備をするために予備校なんて通えない。

 

参照

カナダ高校留学 〜2年目〜 - lgbtlifecanada’s blog

 

そして実家には私の部屋なんてなく、兄弟の部屋で過ごしていた。

PCもなかったため、一般受験ではない方法での受験を目指した。

 

 

本格化した父親による母へのモラハラ

この辺りから、父親の怒りの矛先が全て母親に向く。

何に対しての怒りか?

 

それは

・彼の事業がうまくいっていなく、お金がないこと

・それは過去に起きたことが原因

・その原因は全て母親

・あの時、母親がこういうことをしていれば今頃うまくいっていた成功していた

・悔しい。許せない。悔みきれない。

 

という彼の頭の中。

 

こうなると母親がすること全てが気に入らない。

 

叫び散らす。酒を飲む。態度で精神的に追い詰める。

 

彼が思う母親のせいだと思っていることを全て母親にぶつける。

 

全て母親のせいになる。

 

ある日、彼のスーツに虫食いが発覚した。

 

母親が責められた。叫ばれた。

 

”お前がケアしておくべきだった。”

”女の仕事だ。”

”男に恥をかかせるな。”

 

母親は家計のためにパートに出ている。

父親はずっと家にいる。

 

自分がすればいいことを母親のせいにする。

 

私は思います。

人のせいにするのって楽ですよね。

その人のせいにすれば自分は悪くないんだから。

それで悔しさを少しでも解消できるんだから。

 

人のせいにすることで自分に納得する父親

そんなこんなで、このような

今うまくいっていないことを過去の母親の行いのせいにし、

”あの時お前がこうしていれば” と、

四六時中罵声を浴びせる言うようになった。

 

そして彼はずっと不貞腐れ、キレ、叫ぶと言う行動を繰り返し母親を精神的に追い詰めた。

 

そして現在の行動全てに文句を言い否定する。

家事、買い物の内容、発言。

 

ある日、父親が酒の大きな空パックに違う酒を移し入れるように母に頼んだ。

そしてその移し入れた量が気に入らなかったのか、叫び出した。

 

”貧乏人!”

 

自分は座り、座っている母親を立たせて依頼し、その依頼を聞いた母親に対して叫び散らす。

 

私は、心の中で、思っていた。

 

じゃあ自分でやれば良いのに

 

でもそんなこと言えるはずがなかった。

火に油を注ぐことになる。

 

精神的に参る日々と同時に芽生えた私の使命感。

そして父親の母親に対しての八つ当たり、人のせいに拍車がかかり、彼の怒りは収まらない。

 

家にいるとよく叫び声が聞こえた。

態度で精神的に追い詰める場面に直面することが多かった。

空気が張り詰めている食事の時間。

 

私はその時だんだんと精神的に落ち込んでいた。

 

この時の私の心。

 

俺がなんとかしないと。

 

という使命感があった。

 

私はその時期、アルバイトをしていた。

アルバイトから帰るのが怖かった。

家に帰ると家で起きていることが怖く、どこにいても心を休める場所がなくなっていた。

 

永延と聞かされる、母親の悪口、過去の栄光

ある日、私は父親に誘われ、近所にある大きな墓地へ車で向かった。

車内ではもちろん母親の愚痴、また母親の家族の悪口を散々話された。

また、自分の過去の栄光を話され、こんなことをしてきたんだぞ俺は。

とペラペラずっと喋っている内容を聞かされた。

 

墓地につき、ベンチに座り、さらに愚痴や文句を言われた。

そして母親の育ちが悪いと言うことを永延と話された。

 

父親が言う育ちの悪さとは

学歴、育った場所

である。

 

母親は団地で育った。

 

父親は

 

団地育ち=育ちが悪い

 

と言う貧しい思考をしている。

 

そしてそんな家に住んでいた母親の家族は、母に十分な教育をしてこなかった。

だから自分のことをきちんと支えられなく、自身のビジネスがうまくいかなかった。

 

と言う解釈なのだ。

 

母親、そして母親の家族を全力で否定することを散々私に言ってきた。

 

”嫌だろうけど俺の愚痴を聞いてくれよ。”

 

と言われた。

 

そこの近くにいた老人のこちらを見る哀れな目が忘れられない。

 

私は思う。

育ちが悪いと言うのは学歴でも生まれ育った場所でもない。

 

育ちが悪いと言うのは

これを言ったら人を傷つけると言うことを知らないこと

何かを人のせいにすること

これらを行うことで周りが傷つくことを知らないこと

だと私は思う。

 

 

どうしてもわかって欲しい自分の過去の栄光

家の雰囲気は最悪で兄も父親が今行っていることに不満を持っていた。

でも父親は、自分が過去の栄光、そして母親のせいで今こうなっていることをどうしても私たち兄弟に知って欲しい、そして理解して欲しい。

 

過去の栄光とは、父親のビジネスがうまくいっていた時、私たちは確かに豊かな生活を送れていた。

そのことを私たちに知って欲しかったのだ。

知ったところでどうなるのか、いまだに私には理解ができないのだが、

 

要は、過去に彼が成功して豊かな生活が家族で送れていたことを思い出し、その時のことを詳しく私たちが知れば、今の貧困の状況を理解し、

 

あの時は凄かったね、私たちが知らない中でそんな葛藤があったんだね、すごいね、今のこの状況は悔しいよね、あの時母親がこうしていればね。

 

と思って欲しかったのだろう。

 

今はこうだけど過去は凄かった。だから家族は良い生活ができていた。

今のこの状況は自分のせいではない、と思って欲しかったのだろう。

そうすることで父親の承認欲求を満たせると思っていたのだろう。

 

ある日、兄に用事があったため、母親が兄を車で送ることになった。

その際、私も用事があったため一緒の車に乗った。

父親は母親に言った。

”俺が今まで何をしてきたかちゃんと子供たちに説明しておけよ。”

父親は私たちにも言った。

”俺が今まで何をしてきたかちゃんと母親に聞いておけよ。”

 

そして帰宅した後、父親から、母親が送迎中に私たちに、父親がこれまでしてきた栄光を説明したか聞いてきた。

 

でも母親は送迎してくれている時、明るい話をしてくれていた。

 

父親にはしてないなんて言えるはずがなく、

私は嘘をついた。

こんなことを説明してくれたよ、と伝えた。

そうすると、”それで?それだけか?”と言われ、それでは足りないと再度母親を叫び責め、態度で母親を追い詰めた。

 

 

出ていけと言われた母親

ある日、父親は母親に家にある結婚道具で持ってきたタンス、母親の荷物、全てまとめて出ていくように伝えた。

 

母親は引越し業者にそれらを持っていくように頼み、実際に引越し屋が運んだ。

 

その後、何が原因かはわからないが父親の機嫌が少し治り、

”出ていけっていうのは、あれはタンスが大きくて寝室を圧迫してたから実家に戻してと言う意味だった”

と意味がわからない弁解をし出した。

 

そう、彼は何かあると、

”そんなつもりじゃなかった”

と言う。

犯罪者と同じである。

”○すつもりではなかった”と言う人と同じである。

 

よく、”理解してくれよ”と、”わかってくれよ”と彼はいう。

 

でも私にはわからない。

 

どんなことがあっても、それを今現在の話に持ち出し、精神的な病になったり、そのことについて叫び散らし、人のせいにしたり、人格を否定したり、人の人生を支配して良いなんてことは許されないのだから。

こんなことがあった、だから上記のことをして良いなんてことは絶対にない。

 

恐怖の食卓

私は食事の場面が特に怖かった。

 

酒を飲んでおり、癇癪はいつも以上に起こる。

そして、よく私も父親から追い詰められた。

例えばある日、経済のことを語られ、質問された時に答えられない時があった。

そうすると、

”なんで○○(正解)と答えられないんだよ。”

”なんでそのくらいのことわからないの?”

と癇癪を起こされた。

 

私はこれらのことから、父親が含んでいる食事は本当にストレスがたまる。

父親がいない家族との食事もなぜか気が向かない。

多分トラウマになっているのだと思う。

 

母親を庇うと拗ねる父

私はこの頃、どうにか父と母の仲が修復して欲しいと思っていた。

そのため、一度父に対して母のことを庇い、仲直りできないか必死の思いで伝えた。

 

そうすると父から、

”ずいぶん母親の見方をするじゃないか。良いなあ俺も見方されてえな”

と言われた。

 

その時私は、やってしまったと自分を責めた。

また母親が責められる機会を作ってしまったと。

 

このような父親が母親に行うモラハラは私が大学に入り数年経つまで行われた。

その間にも、何かるとすぐ癇癪をおこし叫び散らす、責める、人格を否定すると言う行動は続いた。

 

場所を選ばずどこでも叫ぶ父

今もたまに発生する。

実際に私がモントリオールに来る直前、私がモントリオールに行くと言ったら外食先で散々叫び散らされた。

 

と言うように今現在でもそれがたまに行われていること。

 

 

私のトラウマ

これらのことは私にトラウマを産んだ。

 

- 大きな音がやたら怖い。

- 人が少しでも争いだすと、とてつもなく怖くなる。ソワソワする。

- 誰かが怒っていると、それは私のせいなのではないかと思う。

- 父親と同年代の人とい一緒にいると恐怖を感じる。胸騒ぎする。

- 父親と目を合わすことができない。

- 夢で父親に叫ばれる。殴られる。

- 自分の意見を言うのが怖い。

(間違っているのではないか、父親のように人格否定されるのではないかと思ってしまう)

- 急に当時のことを思い出し、精神的に落ち込む。

- 自分を責める。自分を肯定できない。

 

今思うこと

私は今になってよく思う。

父親が行ってきた行為は犯罪であり、なぜあの時、家族は我慢したのだろう。

なぜ母親は離婚しなかったんだろう。なぜ今もわざわざ一緒にいるのだろう。

 

でも母親が父親と一緒にいるかいないかは夫婦の問題なので私は口を出さない。

 

一つ、なぜ離婚しないのか、それは私のある日の一言が少し影響しているのではないのか、、、と思っている。

 

それは兄がスクーターを購入した時、父親はいつも以上に激昂した。

父親はバイク乗ることを反対している人であった。

でも父親は兄に20歳を過ぎたら乗って良いと言っていた。

 

だから兄は20歳を超えた時、これまで貯めていたお金でバイクを買った。

父親は怒り狂い、

”何が20歳を過ぎたら買って良いだ、誰がここまで育てたと思ってるんだ、何かあったらこれまで私立に通わせていたお前に使った金がどうなるんだ。どんな身分でそんなこと言ってるんだ。”

 

と言った。

 

そしてお決まりのように怒りの矛先は母親に向かった。

そしてこのように兄が育ったのは母親のせいとして、

 

これまた母親のせいになった。

そもそもバイクを買ったのは兄。

買えるように育てたという恩義せに繋がるのも意味が不明。

自分が言った発言に責任を持っていないで叫び散らす。

全くロジックが通っていない。

今、お金を稼げるようになっているのは父親のおかげだと言わんばかりの内容。

 

そして父親は離婚すると言い出した。

 

私は父がいない時に母に聞いた。

 

”離婚しても良いの?俺はそれだと困るよ。”

 

と。

 

そうると母親は、

”そうだよね。ごめんね。”と言った。

 

母親が謝る必要なんてなく。

でもその母に伝えたことが、彼女がいまだに離婚を選ばない理由の一つになっているのかなと思う時がある。

 

結局その脅しで兄はバイクのキャンセル料を支払いバイクを買うことを諦めた。

そのあとの父親の機嫌の治りようと言ったら。

”後で買わなかったことを感謝するだろう”

”バイクがなく一緒にツーリングできないから友情が続かなくなったらそんなの友達じゃないから”

 

とのこと。

 

私は今、母親が離婚したいと言ったら、大賛成する。

本当に一緒にいない方が良いと心の底から思う。

これまで散々支配されてきた私たちと母の人生。

もう彼の罠に引っかかりなが生きるなんてしないべきだと思う。

 

しばらく父から受けてきたことの投稿が続きます。

 

それが終わったらモントリオール留学について書いてゆきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カナダ高校留学 〜帰国トラブル〜

 

こんにちは。モントリオールはパーカーなどが必要なくらい寒くなっています。

そして小学校〜高校は通学スタイルに移行しつつあります。

(モントリオール留学については後日書いてゆきます。)

 

前回は高校留学のプロム、卒業式、そしてサプライズパーティについての記事を書きました。

lgbtlifecanada.hatenablog.com

 

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これまで、カナダ高校留学について書いてきました。

読み返してみると、ああこのこと書きたかったな、書き忘れたなということが何個かあるので、時系列がバラバラになってしまいますが今後、改めて書いてゆきたいです。

 

今回は、帰国編です。事件が起きます。

 

  • いよいよ帰国
  • ハプニング発生 飛行機に乗れない
  • 滞在スペース確保
  • プチサバイバル生活スタート
  • 救いの手、優しい心
  • ようやく帰国

 

 

いよいよ帰国

帰国前日、私は仲良かった台湾人と現地の友達と夜通し遊んでいた。

家の中と外を往復して遊んでいました。蚊に刺されまくった記憶がある。

 

その前に、ホストママがレストランへ食事に連れて行ってくれて送別会をしてくれた。

また、彼女の親戚が集まる場で食事をした。

 

そして帰国当日、ホストママといろいろ話し、寂しくなったけどホストママも気丈に振る舞ってくれたのでこっちも頑張って明るく接した。

でもやっぱりふとしたときに寂しくなったのか、ホストママから、”寂しい?帰りたくないのね?”と言われた。私は顔や雰囲気にでるタイプなので私の心情がわかったみたいだ。

 

そんな予定はなかったし、来れないのはわかってたけど、”今年の冬にまた遊びくるね”と伝えた。

でもなぜか来るのかもしれないなあと思っていた。

 

そしてホストママが空港まで車で送ってくれた。

 

道中、本当に本当にいよいよこれが最後なんだな、日本で頑張らないとと思っていた。

またこれまでカナダで過ごした日々を思い出しながら、スッキリした気分でいた。

 

空港に到着し、ホストママとハグをしてお別れをした。

夕方前。空港の外のちょうど良い温度で軽い空気、自然の匂い。

気持ちよかったな。

 

同じ高校に留学していた帰国組・一時帰国組の日本人達と帰国便を合わせて一緒に日本に帰ることにしていた。

また、せっかくバンクーバーで乗り換えるのだから、1泊しようということになっていた。

 

 

バンクーバーに到着。

しつこいようだが、本当にここが好きだと感じた。

雰囲気・空気・気候、全て自分に合っている。

本当に素敵な経験をしたし素敵な友達にも出会えたけど、一度バンクーバーで高校を下見したときに出会った本気で行きたいと思った高校に行けていたら今どんな感じだったんだろうなあと想像した。

 

参照

私がカナダに高校留学をした理由。 - lgbtlifecanada’s blog

カナダ高校留学 〜思わぬハプニング〜 - lgbtlifecanada’s blog

カナダ高校留学 〜日本出発から到着、学校が始まるまでの日々の過ごし方〜 - lgbtlifecanada’s blog

 

そして皆とバンクーバーで遊び、一泊した。

 

ハプニング発生 飛行機に乗れない

翌日、バンクーバーの空港に向かった。

カウンターで出国手続きをしようとしたところ。

 

”ゲートはクローズしてるからあなた達はもう飛行機に乗れません”

 

とのこと。

 

離陸1時間少し前であった。

でも乗らせてくれないとのこと。

いくら説得してもダメ。

 

そのあとの日本便は満席で早くても5日後しか乗れない。

しかも関空行きで、そこから成田行きに乗り継がないといけない。

(この時期、カナダに留学している高校生達が一斉に一時帰国するのだ。

なので直近で飛行機を取ることができない。)

 

私たちが下した決断。

 

5日間、空港で過ごす。

 

実はこの時、私はバンクーバーで一泊した後に空港へ向かっているバスの中でポケットに入れていた600ドルを無くしていた。

 

他の友達もその時、手持ちのお金がなく、全員で空港にステイすることになった。

今はできないことかもしれないが、当時は空港で自身の便を待つために空港泊をしてもよかった。

 

滞在スペース確保

私たちは早速空港で快適にステイできる場所を確保するために空港内を探索した。

 

そうすると、横に長く移動させることができる椅子を発見。

 

壁とエアコンが一体化になっているところだったためそこに2つの椅子を向かい合わせにし、コの字型にした。

壁際に全員のスーツケースや大事なものを置き盗まれないようにした。

 

プチサバイバル生活スタート

ここからプチサバイバル生活が始まる。

先も述べたが私たちは手持ちのお金がほぼなかった。

そのため、お腹が減った→食べる、という優雅なことはできない。

また、全員が一緒に寝るのは危険なので交代生で寝る。

コーヒーを買い、皆でチビチビ飲み空腹を誤魔化す笑

翌日になり冷たくなっても飲む笑

 

皆で体力を使わないゲームをしたりして時間を潰した。

早朝に空港の外に出て朝日が登るのを見たり。

 

あの時ちょうど公開していた私も見ていた空港で過ごす映画。

Terminal

 

よく"本当に今Terminalしてるねー"と皆で話していた。

 

学校の先生達も私たちがここでTerminalをしていることを知っていた。

(まず帰国できないとなったときに何か助けてくれないかと思い、学校に相談していた)

 

Terminal2日目くらいに空港のアナウンスで私たちが呼ばれた。

そうすると学校の先生から電話で安否確認、今の状況の確認が行われた。

 

さらに途中で同じ高校の留学生組がバンクーバーの空港に到着した。

私たちの状況は知っていたのでドーナッツなど差し入れをしてくれた。

 

救いの手、優しい心

3日目の夜、勤務終わりのエアカナダのCAさんが私たちに話しかけてきた。

 

”3日前くらいからここにいるわよね?私、フライトが終わって帰る度にあなた達を見ていたの。大丈夫?シャワーも浴びれていないわよね?私の家に来てシャワー浴びてちょうだい”

 

と言ってくれたのだ。

感謝感激。シャワーを浴びれるのももちろん嬉しいのだが、そうやって心配し、どこぞの知らないアジア人の集団を自分の家に呼んでシャワーを浴びせさせてくれようとするその心が本当に嬉しかった。

 

私たちのグループは私を含め、5人いたのだが、彼女の車に乗り切れないので2人までということになった。

女子もいたため、女子を優先として後1人行ける。

どうやって決めたかわからないが後1人、男子がシャワーを浴びに行った。

 

残った人たちはトイレで髪を洗ったり濡らしたタオルで体を拭いたりしていた。

 

ようやく帰国できる日になった。あの時の朝日は綺麗だった笑

なんだかわからない充実感と達成感。

楽しかったな。

 

ようやく帰国

関空で乗り継ぎ、成田に到着。

 

成田の到着ゲートに着いた瞬間、空港で一緒に寝泊りしていた女子と男子が熱い抱擁を交わしてる。

 

私は意外な組み合わせと、こういう仲だったんだという事実にすごく驚いたが、

ああ、あの時は笑ってたけど実はキツかったのか、よかったよかったと思っていた。

 

しかしそうすると後ろから、抱き合ってたと思っていた女子が私に話をかけてきた。

どうやら、その男子が付き合っていた彼女が空港まで迎えにきて、久々の再会に抱き合っていたみたいなのだ。

 

この勘違いが面白すぎてしばらく笑っていた。爆笑していた。

 

空港には私の両親も迎えに来てくれて帰宅した。

 

以上。これで私のカナダ高校留学の幕が閉じます。

これからも、少しずつカナダ高校留学時だいにあった面白かったこと、印象に残ったことを書いてゆきます。

 

皆様、どうか搭乗手続きは余裕を持って行ってください。笑

 

そしてその後、日本で私の地獄の日々が始まります。

そのことを書き切ったらモントリオール留学について書いてゆきます。

日本でのことは少しネガティブでダークな内容になるので、見たくない方はタグから見たいと思う話題について飛んで行っていただけたらと思います。

 

本日もご覧いただきありがとうございました。

 

 

カナダ高校留学 〜プロム・卒業式・サプライズ〜

 

こんにちは。モントリオールは急激に温度が下がり、早くも肌寒い気候になっています。

モントリオールの夏は早く終わり、すぐ秋を迎えます。5月くらいまで雪が降るのであっという間に夏が終わります。

(モントリオール留学については後日書いてゆきます。)

 

前回、カナダ高校留学の2年目について記事を書きました。

lgbtlifecanada.hatenablog.com

 

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本日はカナダ高校留学、プロム・卒業式について書いてゆきます。

 

  • いざプロムへ
  • 卒業式に参加
  • カナダで過ごした日々の回想
  • サプライズパーティ

 

いざプロムへ

海外のドラマや映画で高校生たちが卒業式にはっちゃけるシーンを見たことがある方はいらっしゃるかもしれません。

本当にあのような感じです。

 

プロムと卒業式の違いをのべてゆきます。

 

プロムとは

日中はプロムに誘った相手を家まで迎えに行き、エスコートし式典に参加します。

この式典にはスーツ・ドレス(ドレスとワンピースの間のような物)で参加します。

式典は基本的に外で行われ、食事をしたり、同級生や先生と話します。

その式典には現地の生徒は両親が、留学生はホームステイ先の家族が来たりします。

周りの留学生の両親も各国から来ていました。

 

私の場合はホームステイママが来てくれました。

 

 

プロムのパートナーは、早い人は1学期から相手を探します。

相手は同じ学年でなくても大丈夫。また、学校外の人を誘っても良い。

学校外の人と付き合っている人はその人を呼んだりする。

また、異性という縛りはなく、同性を誘ってももちろんいい。

そこはやはり海外で寛容でそういう文化が早く根付いてていいところだなと思った。

私が誘ったのは1学年下のバレー部だった女子生徒。

 

そして夜になると、学校の体育館がクラブのようになり、DJが音楽をかけダンスをしたりカップルはイチャイチャしたりします。

このスクールダンスはプロムの時だけではなく、定期的に学校で行われるイベントです。

 

学校の体育館だけではなく、至る所がプロムの会場になり、皆はしゃいだり高校最後の思い出を作るためにいろいろな行事が行われます。

好きにそれらに朝まで参加できます。

 

私は日中の式典が終わった後、一旦着替え友人達といろいろなイベント先へ行きました。

 

この時、改めて海外の高校で生徒をしてるんだなと感じる場面でした。

こんなイベント、日本では行われない。

しかもカナダではこれらが公式で行われている。

 

途中でファミレスを挟み小休憩したのを覚えている。

同じ学年のカナディアンの友人、ホッケー留学をしていたドイツ人の友人。

 

その後どこに行ったかは覚えていないが、このプロムの日、よくふと我にかえり”ああもうこんな日々はすぐ終わるんだなー、すぐ日本に帰ることになるんだなー”と思いながら過ごしていた。少しセンチな気分になっていた。

 

 

卒業式に参加

朝、皆と解散し、その日の夕方にある卒業式に参加。

 

その式は割とカチッとしており、地域にあるホールを借り、座っている卒業生が校長先生に呼ばれ、日本で言う卒業証書のような物をもらう。

 

これもよく映像や写真で見ることがある、四角形の帽子を被り、マント見たいな物を着て参加する。

 

一人一人呼ばれ、その都度、来場している方々から歓声や拍手をもらう。

 

ここでも私は”あーいろいろあったなー、ここまで来るのにいろんなことがあったけど、楽しかったな”と回想モードになっていた。

 

そして全員の名前が呼ばれた後、四角帽を空に向かい一斉に投げる。

 

いえーい!卒業ー!

 

と、嬉しいんだか悲しいんだかよくわからない感情。

でもすごいすっきりしていた。

もう日本に帰る覚悟ができていた。

 

カナダで過ごした日々の回想

ここで過ごした2年間。

バレーボールに参加して掛け替えのない時間を素敵なチームメイトと過ごせたこと。

遠征の道中のみんなとの会話。景色。

白熱した試合。

遠征先でみんなと過ごす時間。

いじられキャラで得したこと。

素敵なニックネームをもらったこと。

部活で少しヒーローになれたこと。

それによって学校中の生徒と仲良くなったり顔見知りになれたこと。

学校の友達と車で旅行したこと。

授業中のみんなと過ごす雰囲気。

自分の意見を主張すること。

授業をサボったときのこと。

体育の授業でキャンプをしたこと。

ホストママ・ホストブラザーと過ごしたこと。

いろいろな国の留学生と友達になれたこと。

日本にいては出会えなかった日本人の友達。

びっくりするくらい田舎だけど、

広い道。

どこを見渡すかぎりの広い景色。

空気の匂い。

ゆっくりとした時間。

そこらへんにたくさんあるカナダっぽい山。

カナダっぽい湖。

焚き火の匂い。

夜になると見える隙間がないほどの星。

片思いをしたこと。

 

これらのことは私の胸にいまだに強く強く残っている。

日本に帰った後、これらとのギャップにとても苦しんだ。

これはまた別のブログで書く。

 

 サプライズパーティ

そして、その後もレビューのために学校へ行きクラスに参加することがあった。

 

ある日私は1学年下の日本人の友達に遊びに誘われ彼(A)の家で遊んでいた。

するとその友人(A)の家の近所に住んでいる一緒に卒業する日本人達も途中で混ざり遊ぶことになり、同じ近所に住む違う日本人(B)が住んでいる家に遊びに行く流れになった。

 

そしてBの家に着き、ドアを開けた瞬間。

 

”卒業おめでとー!!!!”

 

と、1,2学年下の日本人達がサプライズをしてくれた。

 

可愛くパーティー仕様にデコレーションされていた。

B宅のホームステイファミリーも気を遣ってその日は留守にしてくれたらしい。

 

実は私、このてのサプライズは大抵今まで気付いてきた。

途中で感づく。あ、これ何か計画してるなと。

 

でもこの時は全く気づかなかった。

 

結構前から計画をしてくれていたみたいであった。

 

料理もたくさん用意してくれていた。

 

大袈裟なことではなく、これまでで一番嬉しかった感激したサプライズであった。

 

そしてパーティの途中で、卒業する人たちに対し、それぞれ代表して1人が手紙を読んでくれるという場面があった。

 

これまで手紙とかもらった記憶がなかった。

そしていざ読まれると、涙が止まらない。

その時かぶっていた帽子で顔を隠し結構泣いた。

 

私は、そこで出会った日本人達のことが大好きだった。

 

色んな思い出がある。

 

その手紙で、ああそんなこともあったなーとか、こんな風に思ってくれたんだなーとすんごいすんごい感動した。

その手紙は今でも持っている。

日本に帰った直後はよくその手紙を読み返していた。

それが私の大きな励みになった。

そんな彼らとは今でも仲良くしている。

 

その日は夜通し家で遊んだ。

途中、夜中に公園へ行きみんなで星を眺めたりした。

 

何も思い残さず帰国できる。

そう思った。

 

そして私のここでの留学生活は幕を閉じた。

 

次の記事は帰国編を記事にします。ここで凄い体験をします。ぜひ見て頂きたいです。

本日も読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

カナダ高校留学 〜2年目〜

 

こんにちは。

日本はとても暑いと聞いています。モントリオールも暑いですが、日本よりは暑くないと思います。少なくとも私がそれまでいた東京に比べるとまだまだモントリオールは快適です。

(モントリオール留学については後日書いてゆきます。)

 

前回、カナダの高校での授業スタイルからイグザムまでの記事を書きました。

lgbtlifecanada.hatenablog.com

 

U-NET

 

本日は、カナダ高校留学2年目のことについて書いてゆきます。

卒業前後、そしてプロム(卒業イベント)、卒業式についてはまた別記事で書いてゆきます。

 

 

  • カナダ高校留学2年目を送るため一時帰国
  • 現地へ出発
  • 2年目のスクールライフ
  • バレーボール部加入
  • 現地大学進学に向けて動き出す 
  • 帰国の決断

 

 

カナダ高校留学2年目を送るため一時帰国

私は、カナダの高校で1年目を終えた際に、日本へ一時帰国しました。

なぜなら、私はカナダへ留学する前、父親から一度は許しを得たものの、現地の高校を見学してくるように言われ、私が留学したかったバンクーバーへ行き、本気で行きたいと思う高校を見つけて帰って来ましたが、その後急に反対されることになりました。

そのため、高校留学は1度断念され、説得を続け高校2年生の時にやっとカナダに行けました。

 

その時に出された条件は、

-行きたかった高校ではなく父親が選んだ高校に行く。

-1年カナダで高校生を終えたら帰ってくる。

 

参照

カナダ高校留学 〜思わぬハプニング〜 - lgbtlifecanada’s blog

 

と言うものでした。そのため、1年目の留学を終えて日本に帰りました。

でも私は日本の高校にまた行くつもりは全くなく、日本の高校に行くつもりはないと言うか、カナダに残る意思しかなかったので、荷物はほぼ全てカナダのホームステイ先に残し、日本へ帰国しました。

 

日本に帰り、カナダに残りたい旨を伝えた。

その際、あっさり承諾を得た。

そしてその間日本でアルバイトをしたり、友達と遊んだりしていました。

(もちろん、ある日父親がまた癇癪をおこし兄母含め怒鳴ったり精神的に追い詰めるイベントが発生しました。

本当にこの人はいつでも何か気に入らないことがあればすぐスイッチが入り周りを精神的に追い詰め傷つける。そして沸点が低く、どこに地雷があるか全くの未知。

いつか父親については改めて記事を書きます。と言うか書かせてください。

これは私が心の中にある深くいつも付き纏っているトラウマを書いてアウトプットすることで少し傷が癒されるかもしれないからです。

もし今、家族に留学を反対されている。毒親の元で育っている・育った。よって深いトラウマがある。という方々がいらっしゃったら何か助けになればいいと思っています。)

 

そしてまたカナダへ戻る日、その際、爺ちゃんも見送りに来てくれた。

その際、私がスーツケースをカウンターに預ける時に付き添ってくれたのだが、そこに外国人がいて、重そうなスーツケースを1人で運んでいた。

その彼は少なくとも日本語は話せない方だった。その彼に爺ちゃんが楽しそうに話しかけ彼を助けようとした。

ちなみに爺ちゃんは全く英語が話せない。それでも知らない外国人に自分が知っている英語を使い、陽気に話しかけてる姿を見て、微笑ましいな、やっぱり爺ちゃん好きだなって思った瞬間でありました。

 

現地へ出発

そしてカナダに到着し、バンクーバーに少し立ち寄り、カナダの高校を下見した時に出会ったエージェントの方々と再会した。

その時の記事を貼ります。ブログ後半PS部分を見てみてください。

 

参照

カナダ高校留学 〜日本出発から到着、学校が始まるまでの日々の過ごし方〜 - lgbtlifecanada’s blog

 

 

そしてまた例の、手動でプロペラを回してから離陸する小型機に乗り、現地に到着。

 

 

到着すると、ああやっぱり田舎だなー、何もないなー、よく1年目ここで生活できたなーと思った笑

でもすごく楽しんだ。だからまたここで過ごす2年目を楽しみにしていた。

 

家に到着し数日を過ごした。

新しい台湾からのホストブラザーを迎え入れることになっていた。

(スイス人のホストブラザーは元々1年と言う留学期間であったため帰国。)

 

台湾人のホストブラザーを迎え入れる当日、

例の1年目に仲良くなった1学年上で学校を卒業していたNとGが私に電話をしてきて遊びに連れて行ってくれた。次の遊びとしてゴルフに誘われたが、ホストブラザーの台湾人、またその両親や両親の弟子(その両親は結構な規模の会社を持っており弟子?鞄持ち?がいた)と一緒に食事をしないといけないことになっていたため、ゴルフを泣く泣く断った。

 

あの時、まだGのことすごい好きだったしNのあのテンションが久しぶりでゴルフの方に行きたかったなーと思っていた笑

 

参照

カナダ高校留学 〜現地で恋に落ちた話〜 - lgbtlifecanada’s blog

 

でも家族総出で現地まで見送りに来るってすごいなあ。今思っても。

 

挨拶や現地のことをホストママ含め話し、一通り見せて回った。

何回も言うが、本当に、見せて回るものも特にないのだ笑

だからすぐ終わった笑

 

2年目のスクールライフ

そしていよいよ9月、私のカナダ高校留学の2年目を迎えた。

 

私が仲良かったバレー部全員は私より学年が一つ上だったからみんなもう卒業していない。(と言うより当時、私の学年は私しかいなかった。)

それだけが心配だった。

 

でもバレー部以外の友達もいるしそれなりに楽しく過ごせるのかなと感じた。

 

学校初日に1学期目のカリキュラムを組んだ。

 

私はことのきまだ、カナダの高校を卒業したらバンクーバーの大学に進学するつもりでいた。

大学に進学するときに必要となってくる科目を取り入れた。

(カナダの大学は入学試験はなく、高校でどの科目を取得し、またどのような成績を修めたのかがポイントになってくる。)

 

がやはり大変。現地人もいい大学に入ろうと必死にそれらのクラスでいい成績を治めようと勉強していた。

 

宿題やエッセイが増えてゆき、自分の英語力と向き合わなければならない機会が増えた。あまり日本人と関わる機会がなく、英語を話したり書いたりする機会が多かったとはいえ、私の英語力はまだまだであった。

 

普段の友人との会話で、明らかにおかしい文法や間違った表現の使い方をしていたら指摘してくれることはあったが、何となく私の言いたいことが伝わったり、察してくれたりするため、間違いに気付いてないことがある。

私は今高校留学をしていたら、きっと何か別途レッスンを受けていたと思う。

 

 

 

バレーボール部加入

私はその年もバレーボール部に入った。

部員は私以外皆学年が一つ下だったため必然的に私がキャプテンになった。

キャプテンと言っても大したことはしない。

試合の際に、どちらのチームが先攻後攻か決めたり、試合中に何かあった時に審判に呼ばれるくらい。

あとは背番号のしたに横線が付き、キャプテンが誰だかわかるようになる。

 

2年目のチームは正直あまり強くなく、遠征もそこまですることはなかった。

でもやはりバレーボールをすることの楽しみをひしひしと感じていた。大好きなスポーツであった。

 

勉強と部活の両立は最後の学年になると大変だった。でも心はハッピーであった。

 

 

現地大学進学に向けて動き出す

2学期には本格的に大学進学のためにみんなが動き出す。

 

当時の主流な進学方法は、まずカレッジに進学し、その後大学に進学するという流れであった。

 

特にインターナショナルスチューデントは、カレッジに、

① 成績表

② 英語力(TOEFL)

この2点を提出する必要がある。

 

まず提出先が定める英語力がそもそもないと成績が足りていても入学できないので、学校でTOEFLを受講した。

 

また、高校をカナダで過ごし、何を学んだか、また現地のカレッジに進学して何を学び、どう将来につなげて行きたいかについてのエッセイを書き提出した。

 

私は志望大学に繋がるカレッジから入学許可を受け、入学できることになった。

 

帰国の決断

そしてそのことを父親に伝えると、

 

”もう帰ってきて欲しい。”

 

とのことだった。

父は自営業をしており、当時、私の家族の経済は破滅的であった。

それは理解していた。そのため私は帰国することを決めた。

 

その時私は思った。

 

またバンクーバーにいけなくなった。

私は本当にバンクーバーのことは誰よりも好きだしそこに行きたい気持ちがある。

でもここまで来ると多分縁がない。

 

と。

 

でももうその時はスッキリしていた。

無理なものはもう無理なのだと。

 

周りの留学生たちはバンクーバーやカルガリー等、大きな大学があるところに進学することが決まってゆく中、私は帰国することになった。

悔しい気持ちはあった。でも無理はものは無理なのであった。

 

今思えば、あの時しがみついて奨学金を申請して現地に残れたかもしれない。

でも当時私はそれができなかった。奨学金を貰ったとしても生活して行けるお金がなかったから。

 

そして私は帰国する日程を決め、あとは卒業を待つのみとなった。

 

次回は、カナダの高校の卒業式のイベント、卒業式について記事を書いてゆきます。

 

本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

終戦記念日

命を駒とすることに反対する勇気。

 

国、愛する人を守るために、それが正義として散って行った若い命。

 

先日おばが亡くなった。

彼女は戦争を経験し周りが犠牲になってゆくのを目の当たりにし、終戦後も貧しい思いをしながら生き抜いたこと。

多分自分にはできない。

できるできないなんて言う選択はない。

 

でも今自分ができること。

事実だけを語り継ぐこと。

 

これが最後の対面だとわかっていて見送った家族。

これが最後の対面だとわかって去っていった当人。

戻ってくる燃油が搭載されていないとわかって戦闘機に乗り込んだ無念さ。

必死に逃げても生きることが叶わなかった命。

目の前で散ってゆく命。

後に知る知人友人家族の死。

 

日本だけでなく戦争での犠牲者全ての命を無駄にしないこと。

 

#終戦記念日

 

 

 

 

カナダ高校留学 〜授業からイグザムまで〜

 

みなさんおはようございます。

(モントリオールの記事については今後書いてゆきます。)

 

今回は、現地での授業について書いて行こうと思います。

 

過去に、現地に到着し、1学期の授業を選択し、それが始まるまでの記事を書きました。

 

lgbtlifecanada.hatenablog.com

 

U-NET

 

  

 今回は現地の授業のスタイル、宿題、クイズ、イグザムについて記事を書いてゆきます。

 

  • 授業タイムスケジュール
  • プレゼンテーション・宿題・クイズ・イグザム
  • 単位合否結果発表

 

授業タイムスケジュール

各学期が始まる前に、スクールカウンセラーとどの授業(単位)をとってゆくかという話を私はしていました。

当時は現地の高校を卒業したらそのままカナダに残り、今度こそバンクーバーの大学に行く意識でいたので、その際に取っておくと良いような科目が多々あったし、それまでに取得したことがなかった授業にも興味があった。

 

私が通っていた高校の1コマは90分。

1週間のスケジュールは下記であった。

 

例) A= Math, B= PE C= Science, D= Sosiology, L=Lunch

 

月: ABBLCD

火: BCCLDA

水: CDDLAB

木: DAALBC

金: ABLCD

 

8:30から授業が始まる。

1学期で4つの授業を取り、上記のようなクラススケジュールとなる。

 

1日に1コマは同じ授業を2コマ繰り返し行った。

 

金曜日はそれぞれの授業を1コマづつ。さらに通常の90分ではなく60分と短縮される。

また、ランチも30分に短縮となる。(通常は40分。この10分の差は大きい笑)

 

日本では1コマ50分のクラスであった為、1コマ90分の授業は最初キツかった。

PEなら体を動かしてればいいから楽であったが、一般教科は大変だった。

英語、専門用語、物理など、日本語で説明されてもわからないかもしれないような授業も現地の生徒に合わせて行われる内容についてゆくのが必死だった。

もはやついていけてない時もあったが・・

 

 

 

プレゼンテーション・宿題・クイズ・イグザム

 

-プレゼン

授業にもよるが、やはり海外。自分の意見を求められる。

 

心強かったのは、各授業に私が所属していたバレー部員が散らばっていた。

なので何かあれば聞けるし、助けてくれる。

もちろん、バレー部以外の友達も助けてくれたし、そして私のことを尊重してくれた。

 

授業によってはリサーチしてきたもの、まとめたものプレゼンテーションもあった。

そこでは自分の意見を交えながら話すことが重要になっていた。

また、あるお題に対して、どう感じたか、だからこういうことをするし、このようになってゆけばいいと思う等。

そしてそれに対し、他の生徒がさらに意見を述べたり、評価を行う。

そこで感じたことは、対人間であり、人にはそれぞれの意見がある。

各々の意見に対し、違う意見を持っているからその人自身を否定したりするようなことがなかった。

 

これが他者を認め共存することなんだと感じた。

また、これがディベートなんだと感じた。

 

また、日本人としてどう思うのかと聞かれる場合もあった。

例えば第二次世界大戦。このことに対し、どのように理解し、どう感じ、それによってどうしてゆくべきなのかと聞かれたことがあった。

 

この時私は、他者、また他の意見を認め、

 

そこに”自分の意見を相手に強要するため” 

に意見するということは恥であることを知った。

 

また、

 

”自分の意見に相手が同じ意見を持っていたら敵とみなす”

という思想は貧しいということを知った。

 

私は、父親から何かあると、否定され、また自身の意見に伴った行動を遠回しに強要され、私が彼と違う意見を持っており、それを伝えたら怒鳴られたり母親に八つ当たりしたりということがよく起きていたため、カナダの高校で親子であっても他者としての意見、思想を尊重し尊敬し、強要しない、ということは間違いではなく、それでいいんだと思うきっかけであった。

 

 

 

 

-宿題

宿題も教科によってはあった。あまり量はなかった覚えがある。

しかし、ついていけてない授業もあるので、それのカバーをするための復習は必要であった。

さらに、私が取っていた授業はクイズ(日本で言う小テスト)がよく行われていたため、家で対策をすることは多かった。

専門用語が出てくる科目は大変だった。

また、スイス人のホストブラザーも同じ授業を取っていた場合、一緒にクイズの対策ができたのは心強かったし捗った。 

 

-イグザム

そして学期末に行われるイグザム。

これがうまくいかなければ単位が危うくなる。

 

イグザム前は結構勉強した。

 

イグザムの日は学校の雰囲気が違う。

クールと言うかカラッとしていて、みんなどこか忙しない。

イグザムはクラスごとにそれぞれの教室で行われるのではなく、学校全体でグループに別れて体育館で一気に行う。

体育館には机と椅子がズラーーーーっと並んでおり、テスト用紙とマークシートが置いてある。

同じクラスの人たちが違うタイムテーブルに割り振られることはない。

 

普段優しい先生も試験官としてピリッとしている。

 

 

単位合否結果発表

イグザムが終わるとホッし、休みの体勢になる。

合否は、それぞれのクラスで発表される。

私が取っていた授業の合否の発表方法は、生徒それぞれにこっそり番号が渡され、

クラスの前後左右どこかにクラス全員分の最終スコアの%が書かれている紙が貼られておりそのスコアの横にそれぞれ渡された番号が書いてるのでそれを見ると言うものであった。

 

この時は緊張したな。

 

そして最終的に自宅に届くその学期の成績表。

そこには各授業の先生からコメントが書かれていた。

 

晴れて全て合格していたら次の学期に安心して挑めた。

 

と言うように今回は、私が通っていたカナダの高校での授業やテストの話について記事を書きました。

 

次回は、現地で感じた、現地の雰囲気。私が実際に心と体でどう感じていたか、私の心の状態を書いてゆきます。

 

また、天候のことも書くので、これから寒い地域に留学を検討している方、また行くことになっている方々には特に見ていただきたいです。

 

今日もお付き合いいただき、ありがとうございました。